◆いまひとたびの
照和25年夏、日本武尊は大西洋を南下していた。
太陽が頭上から容赦なしに照りつける。
富森は軍服のカラーに手をやった。
暑い。
長らく北海を主戦場にしてきただけに、急に威力を増した太陽光線に身体がなんとなくついていかない。
決戦のときは近い。
この日の午後、日本武尊に各艦隊指揮官が集められ、紺碧艦隊の前原司令官もまじえた最終的な打ち合わせが行われた。
ほぼ半年ぶりに顔を合わした前原は、会議の始まる前に、富森に軽く目礼したのみでとくに何も話しかけはしなかった。
富森のすぐ前に座りながら一度も振り向かなかった前原。
その精悍な横顔に、大石と対等に意見交換する堂々とした姿に、富森は頼もしく思うとともに一抹の寂しさを感じたのだった。
……立派になられましたな、前原さん。
ともすればそんな感慨に、会議への集中力を削がれそうになって、富森は急いで気持ちを作戦内容に切り替えたものだ。
──それだけに会議の後、その前原が艦長室に突然現れたことに富森は驚きを隠せなかった。
「これは前原司令……」
富森はとっさに言葉がみつからず、呆然と立ち尽くす。
真っ白な半袖開襟の防暑服から前原の引き締まった日に焼けた肌がのぞいている。
涼しげな礼儀正しい笑顔の中で、彼の蒼みを帯びた瞳がぴたりと富森の目を捕らえていた。
「これより亀天号に戻ります。帰艦前にひとこと挨拶をと──」
真剣なまなざしだった。
「あ、お茶の用意は結構ですよ。たった今、長官のコーヒーを頂いてきたばかりです」
顔を出しかけた従兵にももういいからと目顔で制して、前原は応接セットの前に立つ。
「そうでしたか、では何のお構いもいたしませんが……どうぞお掛け下さい」
富森の言葉に前原はほほえみながら頷く。
そして従兵が控室に姿を消すのを見届けると、前原はソファーには掛けずにまっすぐ富森の前に歩み寄った。
彼は何も言わず、そのまま富森の背を両腕で強く抱きしめた。
何も言わず、ただ自分を抱く腕。
富森は驚きから覚めると、そっと横目で前原の表情をうかがった。
前原は目を閉じていた。
その静かな表情からは彼の感情は何も感じ取れなかった。
ただ、十五年前と同じように秀麗な眉目にどこか寂しげな影が漂っているのが富森の気にかかった。
「あなたは今……そばに誰かいるのですか?」
ためらいがちに富森が問いかける。
生真面目な富森の目が自分に注がれているのを前原は感じた。
「いるといえば、いるのかな? なんとなく、そばにそいつがいるだけで、気の紛れるような」
口許に曖昧な笑みを半ば浮かべて、前原は答えた。
「恋人ではないのですか?」
「そんないいもんじゃないですよ……その、関係なら、ありますが」
「いや、これは、そんな立ち入った事をお聞きするつもりではなかった……お幸せならいいのです、あなたが」
「ふふふ……心配してくれるんですか? 私のことを」
前原はほほえみ、甘えるようにまた彼の背を強く抱いた。
艦長公室の書棚を背にして、ふたりは互いを抱いていた──
……忘れてはいなかった。こんなにも長い年月が経ちはしたが……。
富森が長らく忘れていたぞくりとする感覚を、記憶の奥底から呼び起こす前原の唇だった。
記憶の底に沈んでいた、熱い唇の感触、他の誰でもない前原の──
15年前と同様に、熱烈に口づけを返してしまっていた自分がいる。
自分でも思いがけない恋の残り火に気づき、富森は密かに狼狽した。
「いけませんな、そういう相手がいながら、こんなことをなさっては」
富森が途切れ途切れに言葉を返したのは、しばらく時間がたってからだった。
前原が富森から少し汗ばんだ顔を上げて、彼を見つめた。
「浮気だとおっしゃるんですか? ふふふ、違いますよ、あなたは特別です」
そう答える前原の瞳に浮かぶ扇情的な甘い笑みに富森は言葉を失う。
富森の構えた表情をよそに、前原はそのままつつましく目を伏せた。
「私ならもう大丈夫です、いつまでも不安定な若造じゃない。でも、あなたにまた逢えて……ほっとしました。忘れたことはなかった、ずっと今まで」
ずっと今まで。
前原はもう一度、そう心の中で繰り返す。
富森の軍服の濃紺の羅紗地に前原は額をつける。
香の匂いがかすかに富森の軍服からした。
抹香か墨の香か……昔の富森との記憶にない香りに前原はしばらくぼんやりと彼の知らない富森の年月を思った。
長い年月が経った。
あまりにも長い年月──世の中は大きく変わり、ふたりの境遇も変わった。
開戦後まもなく英霊扱いとなった前原と、海の上を離れることのなかった富森と。
これまでどんなにか、富森に慰めてほしいときがあったかしれない。
忙しく孤独な生活の中で、富森を思ったときがどれほどあったか。
異国の花を見るたび、緑の木陰に立つたび、富森を懐かしく思った。
何も問わずに抱きとめてくれた彼の腕を思った。
……あなたに信じてもらえるだろうか? この思いが単なる気まぐれではないことを。長い年月のあいだ、あなたを忘れることはなかったということを。私にとってあなたは……あなたこそが、私の──
思いを込めた言葉を唇に載せたまま、前原は富森をみつめ、そしてまた目を閉じて富森の肩に顔を埋めた。
……逢いたかった、富森さん。
時が流れても思いは変わらない。
昔の恋人が満足そうなため息をついて自分を抱きしめている。
その前原の日に焼けた肌からは、汗とローションの匂いが微かに立ちのぼる。
彼の背をそっと抱き返しながら、富森は前原の境遇に思いを馳せる。
……あれからの十五年間、あなたは幸せでしたか? そして、今は?
いくら国家のためとはいえ、偽名でひっそりと生きることを余儀なくされ、戦争が終わればあなたはどうするのですか?
富森は寂しげな瞳で艦長室にやってきた前原の身を案じるのだった。
──時は流れ、照和4×年、春。
「富森さん、ご面会の方ですよ」
富森は新聞から目を上げた。
看護婦が微笑みかけ、ドアを大きく開けて背後の人物を病室に入れた。
「……ありがとう」
低いやさしい声でその男は看護婦に礼を言った。
まさか?
富森はドアを注視した。
病室に入るとその男は無言でドアを閉めた。
腕には脱いだ背広の上着を掛けている。
「暖かいですね、暑いぐらいだ……日本はもっと寒いと思っていたのに」
はにかんだような笑みを浮かべたすらりとした男が富森の前に立っていた。
「前原さん……!」
南洋の日に焼けた秘匿艦隊の元司令官……任務から解かれた後も日本に帰らず、彼は紺碧島で暮らしていると聞いていたが、その彼がどうしてここに来たのだろう。
「ご病気のことを磯貝海相から聞いてお見舞いに参りました」
「どうして磯貝さんが」
「ふふ、大臣はぼーっとしているようで、なかなかの情報通ですよ」
前原は笑って、花瓶に活けられた大きなトルコキキョウの花束を指先でつんとつついた。
花束には送り主からのカードが付けたままにしてあった──素直な楷書の達筆で。
「私は花ではなく、絵を持ってきました」
「絵?」
「これを……」
前原は紙袋から新聞紙に包まれたキャンバスを取り出した。
八号の小振りな絵、油彩の風景画だった。
砂浜の続く緑の島。
凪いだ海、湧き上がる雲。
眠たげな熱帯の午後の空気が慣れた筆使いで描かれている。
「……いい絵だ。波の音が聞こえてきそうです。いいところなんですな、紺碧島は」
「ええ。なにもありませんが」
「もちろん、富嶽画伯の絵ですな」
「ははは、今では絵が本職になってしまいましてね」
「それはまた結構な話ではありませんか。私は最初からあなたは芸術家だと思っていましたよ」
面白そうに微笑む富森の目を、前原はほっとしたようにのぞきこんだ。
「……思ったよりお元気そうで何よりです」
「いやもう、中身はさっぱりですが」
富森が軽く笑って腹部を撫でて見せた。
椅子を勧められ前原は腰を下ろし、病人の顔をあらためてまじまじと見つめる。
短く刈られた髪は完全に灰色になり、痩せてやつれた顔は顔色が悪く青黒い。
だが穏やかな表情と鋭い目は変わらない。
「ひげを剃ったんですね、驚きました」
「寝たきりではろくに手入れもできませんからな。人の手を煩わせるのも面倒ですし」
「別人みたいだ、こうしてみると」
前原の驚きに、当の富森はひげのあった場所を指で撫でて微笑んでいる。
富森のトレードマークだった髭が口元からなくなってみると、角刈りの四角い顎をした面長の男は、たしかにある海軍高官の面影を宿していた。
「……あなたが誰だったかようやくわかったような気がします」
前原の言葉に富森が眩しそうな顔つきになって横を向いた。
「もう前世を覚えている人間も少なくなってまいりましたから、よろしいでしょう」
「驚いたな……あなたも転生されていたんですね……私はすごい人と……」
前原が身動きすると、折りたたみの椅子がキィと音を立てて軋んだ。
口許に柔らかな微笑を湛えた前原の、その日焼けした精悍な表情、長めの髪――相変わらず若々しい。
「あなたは歳をとらないんですか? 不思議な人だ」
「ふふ、そんなことはないですよ。ただ島暮らしのせいでしょうか、十年が一年のように感じられるほど、毎日が変わらない。時間の感覚がなくなりそうなほど。ああ、四季がないのもあるかもしれませんね」
「常夏の島ですな」
「ええ、それです。年中バナナとパパイヤが食べられます」
「それはまた、天国のような場所ですなぁ」
二人は笑う。
「ええ、ですから滅多に日本には戻りません。島ののんびりした生活が私には合っています」
「故郷を見つけられたのですね」
「ええ。私の居場所を」
前原の瞳が柔らかく笑った。
富森の目が穏やかに細められた。
春の日差しが病室の白いシーツの上に眩しく伸び、部屋狭しと置き並べられた花瓶からは色とりどりの花の香りが立ちのぼり、まるで温室に憩っているようだった。
「……ここでいいですか?」
病室の壁に前原が絵を立てかけて見せた。
「ああ、それでいい。寝ていてもよく見えます。そこから潮風が吹いてきそうですよ」
温顔に笑みを浮かべて富森が頷いた。
帰り支度をする前原に、満足そうに目を細めたまま富森がつぶやく。
「これが最後になりますかな」
「ええ。かもしれません。お互い歳をとった」
「今日はありがとう。あなたとお話できて嬉しかったですよ」
「私もです。どうぞお大事に」
「お元気で」
ふたりはほほえみながら頷き、別れを告げた。
今度こそ今生の別れになる。
そうはっきりとわかっていたが、なぜだかあまり悲しくはなかった。
別れはほんの一時……どこか別の世でまた必ず会える、そんな気がしていた。
旅順の戦跡記念碑の陰に背広姿の富森がたたずんでいる。
微笑が若い。
出会った頃の懐かしい富森だ。
彼は何か言いたげに微笑みながらこちらを見ている。
……富森さん、どうしたんですか……。
前原の問いかけに無言のまま、富森はふっと横手に目を逸らした。
つられて富森の視線を追うと、いつの間にか景色が変わり、懐かしい旅順の市街が目の下に広がっていた。
それはあの宿の二階から見た旅順の街角の風景だった。
整然と並ぶアカシアの並木……!
いつしか前原と富森はアカシアの木の下に立ち、満開の花を見上げていた。
……ああ、花が、はなびらが……!
はらはらと白い花が散る。
ふたりの肩に、手に、白い花が音もなく降り注ぐ……。
……ああ、きれいだ……! 旅順で見た花吹雪だ……!
視界を覆わんばかりに無数の白い花弁が前原の周囲に舞い踊り、やがてゆっくりと激しい落花は鎮まっていった。
舞い散る花はいつしかアカシアから桜に姿を変えていたようだ。
……これは江田島の桜だ、講堂の。
一面に薄桃色に散り敷いた花びらを踏んで、富森がゆっくりと前原に背を向けた。
……富森さん、どこへ行くんです? 待ってください、私になにか用があったんでしょう!
(顔を見に寄っただけですよ……黙って行くとまた──)
そんな声が聞こえたような気がした。
……富森さん?
背後からどっと風が巻き起こった。
桜の花吹雪がいっそう激しくなった。
真っ白な花の渦……。
江田島の桜、講堂の。
……どこへ行くんですか、富森さん。その先は参考館──
卒業生の物故者名簿のある参考館。
そう、ぱっと閃いた前原は悲痛な声で叫んだ。
「行っちゃだめだ、富森さん──!」
──前原は自分の上げた声で目を覚ました。
夢から覚めても、涙は止まらなかった。
「富森さん。逝ってしまった」
(黙って逝くとまたあなたに恨まれてしまいます……)
穏やかな声が耳もとに甦る。
「来て……くれたんですね、富森さん。最期の別れに」
(ええ。あなたは私にとって特別な人でしたから――)
そんな囁きが聞こえたような気がした。
夜明けの紺碧島は沖からの風が強い。
耳を澄ませても、聞こえるのはただ海鳴りの音。
夜が明けると前原は丘の上に登り、海を眺めて時を過ごした。
海鳴りの音に耳を澄ませ、遠い水平線の彼方をみつめ、何度も想いかえす……若い日の恋の思い出を。
白い波濤で水平線はかぎ裂きをつくり波立っていた。
眼下の紺碧島の波風が前原を追憶へと駆り立てる。
繰り返し寄せる、追憶の波へ。
……今朝だけは思い出に溺れてしまおう、あなたを偲んで。
旅順へ、照和の昔へ。
遥かな、遠い日々。
時空の彼方では、夕闇が迫る二○三高地で、若い前原と富森が静かに旅順港を見下ろして佇んでいた。
「富森さんは生まれ変わりを信じますか?」
「いいえ。人生は一度きりです。……少なくとも、私、という人生は」
追憶の波が、旅順の記憶が、富森の物静かな面影が、何度も何度も彼の前に訪れては、音もなくまた水底に還ってゆく。
海鳴りのする水平線の彼方に視線を泳がせ、前原は遠いまなざしのまま風の中に立ち尽くしていた。