◆秋の香り〜続き
……この男、のろけに来ているのか?
マロウェイ伯は呆れて目の前の椅子にかけた大男をじろりと睨んだ。
紅茶のカップを片手に頬杖をついて、大石が深刻そうな顔をしてため息をついている。
ノーネクタイのシャツにカーディガンを羽織っただけの、ありきたりでいい加減な庶民的風体に伯はうんざりした目を向けた。
伯はきちんとネクタイを締め、ツイードの仕立てのいいジャケットに身を包んでいる。
さすがに本場の英国貴族、身だしなみは完璧である。
……オオイシ提督は女王のおそばにいながら、身なりに無頓着すぎる。
伯は一徹そうなゲジ眉を露骨にひそめた。
大石はそんな伯の様子に一向に気づかず、紅茶のカップをじっと見つめていた。
「……もっとしとやかな方だと思っていたのに、どうしてなかなか乱暴だ」
大石はぼそっとつぶやいた。
「マーガレット様を怒らせた提督がお悪い」
間髪を入れずに伯がやり込める。
「は、一言もありません」
大石は意外に素直だった。
「嫌われてしまいましたかな……」
「ふん、なにを」
伯は大石の弱音に取り合わなかった。
これ以上、のろけ半分の相談事に付き合っていると血圧が上がりそうだった。
「花でも持って謝ってきなされ」
「はあ、花ですか。具体的には何の花を」
「何でもよろしい。そうですな、香りのある花のほうがよろしかろう」
「うーん、なにがいいだろう? さっそく探してまいります」
大石はそそくさと席を立った。
……まったくばかばかしくてやってられん。
ふうっと大きくため息をつくと、伯は冷めてしまった紅茶のカップを乱暴に押しやった。
マーガレットは鏡台の前にぼんやりと座っていた。
……ひどい大石さま。
倒れて身動きしない大石を見て、心臓に冷水を浴びせられたような気がしたものだ。
……なんて大人げない悪ふざけをなさるのかしら!
マーガレットは憤慨する。
……私も大人げなかったかもしれないけど。でも大石さまが……。
彼女の顔がほんのりと赤くなった。
大石がこんなに好色だとは思わなかった。
情熱的ではあっても、節度ある態度を崩さない高潔な提督だと思っていたのに。
軍服を脱いだ大石はとんでもなく陽気で享楽的だった。
……いつも優しいし、可愛がってくださるのは嬉しいけれど……油断も隙もないんですもの。
ふと彼女は真剣な顔になると鏡に顔を近づけた。
鏡に映った目の下に隈があるような気がする。
……光線の加減よね?
あわてて彼女は手鏡をとり、じっと鏡を覗き込む。
……気のせいよね?
……花、か。
大石は忙しく考えを巡らす。
もちろん町の花屋に電話して適当な花を取り寄せれば簡単だ。
しかしそれでも一時間はかかろう。
出来れば昼食の席で顔を合わす前に、謝っておきたい。
……何があっただろう?
庭の花を彼は順に思い浮かべていく。
今の季節、小菊ぐらいしかないだろう。
玄関脇の高窓から吹き込む風に、彼ははっとして立ち止まった。
ほのかなこの香りは……そうだ!
彼は早足になって重い玄関のドアを開けた。
使用人が驚いて飛んできたが、いやちょっと外に出るだけだ、と手を振って追い返す。
玉砂利を足下に踏みしめて、大石は車庫へ向かった。
甘い優しい香りはますます確かになってくる。
車庫の手前の垣根の横に、小ぶりなキンモクセイの木が明るいオレンジ色の小花をいっぱいつけていた。
大石は真面目な顔つきで寝室のドアをノックした。
返事はない。
小さく咳払いして彼はドアのノブに手をかけた。
「私だ。入るよ」
ドアに鍵はかかっていなかった。
そっと半分ドアを押し開けておそるおそる中の様子をのぞきこむ。
また、いきなりクッションが飛んできても困る。
マーガレットはブラシを手にして鏡台の前に座っていた。
梳き流された豊かな髪が美しい。
「謝りにきたんだよ……その、さっきは悪かった」
彼女の前に進み、殊勝げに彼は目を伏せた。
マーガレットはそんな彼の顔を黙ってじっと見上げていた。
こうして真面目な顔つきの彼は、今朝のような悪ふざけをする人物にはとても見えない。
つややかな黒髪を撫で付けた端正な面持ちはいかにも高潔そうだ。
(このお顔に今まで騙されていた……)
内心、マーガレットはおかしくてならない。
(茶目っ気たっぷりの好色漢。私はまだまだあなたのことをよく知らないのだわ)
マーガレットは美しい口許に寛大な笑みを浮かべた。
目を上げた大石はこの自然と威の備わった女王らしい微笑みに思わずかしこまってしまう。
……かなわんなぁ、この方には。
退位はしてもやはり彼女は女王……気品と威厳は余人のものではない。
大石は背中に回して隠していた右手を差し出すと、中のハンカチ包みを黙って見せた。
真っ白なハンカチの包みがはらりと解けて、キンモクセイのオレンジ色の小花が芳香を放つ。
「まあ……!」
マーガレットが顔を輝かした。
とたんに初々しい可憐な表情になった彼女の手に、大石はハンカチごと花を渡した。
「キンモクセイ……いい香りだろ?」
ハンカチの花に顔を近づけるマーガレットの可愛い仕草に、大石の顔がほころぶ。
「ええ……それになんて可愛い……キンモクセイ?」
小首を少し傾げてマーガレットが大石を見上げる。
彼女の愛らしい表情に、現金なもので大石はとたんに胸が高鳴るのをかんじた。
「そう、キンモクセイだ。小枝を折ってこようかと思ったんだが、木を痛めるのもかわいそうだからね。後で咲いてるところを見に行こう」
「ええ」
両手にハンカチ包みを大事そうに持って、マーガレットはうっとりとその香りを楽しむ。
無邪気なその仕草に、匂うがごとく微笑むその口許に、大石は心を奪われる。
……可愛い!
たちまち大石は身を焼くような煩悩のとりことなってしまう。
……今度こそ!
先ほどまでの反省はどこへやら、大石は素早く頭の中で作戦を練りだした。
…いたって落ち着いた微笑みを浮かべながら、彼女をそっと抱擁し、手の中のキンモクセイの包みを取り上げて鏡台の上に置く。
……そしてそっとそっと優しいキス。
……頃合いをみて手早くベッドに運び、念のため危険なクッションを床に落として……よし! 後は実行あるのみだ!
大石が作戦を慎重に遂行している頃、食堂ではマロウェイ伯夫妻が席について手持ち無沙汰に大石たちを待っていた。
時計は一時十分になっていた。
昼食時間を十分もすぎている。
時間厳守なふたりにしては珍しい大遅刻だ。
「かまわん、先に始めよう」
伯は給仕に料理を持ってくるように合図をした。
「でもあなた、マーガレット様と提督が」
驚いたようにレディ・クレアが言葉を挟む。
「ああ待ちなさい、お呼びしなくていい」
気を利かせてふたりを呼びに行こうとしたメイドを伯は止めた。
「おふたりの昼食は今日は要らん……そう料理番に伝えてくれ」
伯の言葉にメイドは一礼して下がる。
「どうしてですの?」
レディ・クレアが不審そうに夫の顔を見る。
「ふん……不粋なことを聞くな」
「え?」
「新婚夫婦の邪魔をするなということだよ」
「……」
レディ・クレアは謹厳な夫の顔を信じられないというように見た。
「ま、私たちにも覚えのないことではあるまい」
軽く咳払いをして伯は横を向いて妻の視線を避けた。
「まあ……」
レディ・クレアはますます呆れて白い眉とひげの夫の顔を見つめた。