◆雨の匂い


外は雨。
昨日から降り続く雨に、庭には所々水溜りが出来ている。
雨脚は昼過ぎよりは幾分弱まったものの、いっこうにやむ気配はない。
この薄暗さはもう夕方なのだろうか。
居間の時計をマーガレットは振り仰いだ。
……まだ四時前。
マーガレットは窓から離れ、ため息をついてソファーに戻った。
雨雲の垂れ込めた外の暗さがマーガレットの気持を沈ませる。
今日で三日目になる。
明日の晩まで大石は出張から戻ってこないのだ。


夜になっても雨はやまない。
途切れのないしめやかな雨音にいっそう気分を滅入らせて、彼女はまたため息をつく。
……ひとりでは寂しすぎる。
目は膝の上の本の活字を追ってはいても、心はすぐにとりとめのない思いに飛んでしまう。
精気に溢れた大柄な大石の姿がないと、この居間も寒々しい。
長い足を軽く組んで、マントルピースに寄りかかってマーガレットに話しかける大石ののんびりとした笑顔。
ソファーにどっかりと腰を下ろして寛ぐ姿。
たとえ居間にいなくても、そっと書斎をのぞけば机に向かう大石の大きな背中があった。
振り向かずに
「……どうした?」
と低く尋ねることもあるし
「おいで」
と笑って差し招いてくれることもある。
……ああ、ひとりでは寂しすぎるわ、あなた。
ため息がまたマーガレットの柔らかな唇から漏れた。
大石の気配の消えたこの屋敷はなんと侘しいのだろう。
ひとりでこうしていると、たまらなく大石が恋しい。
海の彼方の大石の手紙だけを待ち焦がれた、孤独な女王時代に戻ったような心細さだった。
……どうかしている。たった数日留守にされてるだけなのに。
こんなことを帰ってきた大石に打ち明けたなら、彼はどんなに笑うだろう。
大石の陽気な笑顔を思い浮かべて、マーガレットは気分を引き立てようとした。
……明日になれば会えるのだから。またお顔が見られるのだから。
夜になってときおり強く吹く風に、ぱらぱらと音をたてて庭の梢から雨粒が落ちる。
その寂しげな音にマーガレットの顔がまた曇る。
……雨は嫌い。ひとりで聞く雨の音は嫌い。


夜が更けた。
雨は断続的に降り続き、風はますます強くなってきた。
ようやく寂しかった一日が終わろうとしている。
マーガレットはブラシを手にして、ぼんやりと鏡をみつめていた。
梳き流された蜂蜜色の金の髪が、寝室の淡い灯りを受けて鏡の中で鈍く輝いている。
車の音が聞こえたような気がして、マーガレットは鏡台の前で耳をすませた。
……もしかして、大石さま?
さっと立ち上がり、彼女は寝室のドアを開けて階下の気配をうかがった――大石のよくとおる低い声がたしかに聞こえてきた。
……お帰りになった!
ぱっとマーガレットの顔が輝き、ガウンを手早く羽織ると彼女は足取りも軽やかに部屋を出た。


「ただいま奥さん。驚いたかい?」
深夜に自宅に戻った大石が、ふわりとしたガウンをなびかせて階段を下りてくる彼女を眩しげに見上げた。
「この長雨で演習地の裏山が崩れた。明日の演習は中止、査察も今日で終わりということになった」
演習が中止と決まるやいなや、夜にもかかわらずこの大雨の中を大石は車で戻ってきたのだ。
周りのやっかみ半分のひやかしを受けても、彼は泰然と笑って受け流し、さっさと用のなくなった宿舎を後にした。
マーガレットが彼の帰りを待っている。
料亭での付き合いも軍部内の懇親も、功成り名を遂げ第一線を退いた今となっては何の必要も感じない。
度を越した愛妻家だと? あたりまえだろ、俺が妻にしたのは女王陛下だ。


横殴りの激しい雨に大石はすっかり濡れてしまっていた。
湿った外套から繊維の匂いが強くする。
濡れているから、だめだよ……そう大石が手まねで駆け寄ったマーガレットを押しとどめた。
大石のその手も雨に濡れて、水滴が玄関の明かりをきらきらとはねかえしていた。
従僕の差し出したタオルで大石は大雑把に全身の水気をぬぐい、それから照れくさそうに妻のキスを頬に受けた。


たしかに真夜中に大雨の中を帰ってくるのは馬鹿げているかもしれない。
しかしこのマーガレットの輝くような笑顔をひと目見れば、十分その甲斐はあったというものだ。
寂しかったと真顔で訴える彼女に、大石は首を傾げて笑って見せた。
「寂しいって、たった三日じゃないか」
「ちゃんとお待ちしてましたわ」
「こういうふくれっ面でか? 家のものが困っただろうな」
彼女の頬に軽く触れて、大石は機嫌よく冗談を口にする。
「またそんな。大石さま、お食事は?」
「ちゃんと済ませたよ」
濡れた外套を従僕に渡しながら、大石は彼にも何もいらないよとうなずきかける。
「明日のご予定は?」
「出来上がった報告書にサインするだけだ。一日家にいるよ」
「うれしいわ!」
大石が帰宅したとたん、マーガレットに華やかな笑顔が戻り、彼女の笑顔に邸内も生き生きと活気づくのだった。


居間からパタパタと人の足音が忙しげに聞こえてくる。
大石の濡れた軍服を化粧室から持ち出して洗濯に出すのだろう。
やがて、人の気配が消え、居間は静かになる。
マーガレットはベッドの上で耳をすませていた。
ナイトガウンを羽織ったまま、両膝を抱えて彼女は小首を傾げる。
こうして大石が風呂からあがるのを待っていると、物音のしない室内に外の雨の音だけが響いてくる。
陰鬱な夜の雨。
エジンバラの雷を伴う冬の嵐や、やわらかな夏の霧雨を彼女は思う。
日本の雨は雨音さえもどこか湿っぽく、どこか謎めいた東洋的な情緒を漂わせる。
なんにしても、この国は湿度が高い。
空気にいつも蒸気が含まれているような気がする。
マーガレットはこの国の風物が嫌いではない。
ただ雨音ですらイギリスと異なるこの極東の国にいる自分を、ふと不思議に思うだけだ。


いちだんと風雨が強まってきたようだ。
激しい雨が風のうなりと共に鎧戸を叩く……。
マーガレットは目を閉じて、外の雨音と記憶の中の雨音を重ねていた。
イギリスでは夜の雨の音をいつもひとりで聞いていたような気がする。
小さいときも、大きくなってからも。
……寂しかった、いつも。夜の嵐が怖かった。嵐の夜は誰かと一緒に過ごしたかった。
美しい調度に囲まれた子供部屋で、嵐の音に目を見開いて怯えていた少女の自分――
『ねえ、もう行ってしまうの、クレア』
就寝前の部屋の点検を済ませ、小間使いたちを従えて出て行こうとした養育係の夫人を、幼いマーガレットはベッドの中から遠慮がちに呼び止めた。
『どうかなさいましたの?』
『……ううん、なんでもないわ。おやすみなさい』
わがままや甘えを言えば、周りの者を困らせることになる。
臆病な言葉や幼児のような駄々は、十に満たぬマーガレットであっても王族の矜持ゆえに、もはや口にすることはできなかった。
『――おやすみなさいませ』
ぞろぞろと人が出て行き、灯りを落として暗くされた子供部屋にマーガレットはひとり取り残された。
窓の外には吹き荒れる嵐の音――
化粧室のドアを閉める音に彼女はぎくんと身を起こした。
「眠っていたのか?」
パジャマに着替えた大石がいつの間にかベッドのそばに立っていた。
驚いたように自分を見つめる彼女に大石は不審そうな顔をした。
「どうした?」
ベッドの上で両膝を抱えて座ってこちらを見る彼女はひどく頼りなげで幼く見えた。


「風が出てきましたのね」
彼女のつぶやきに大石はカーテンの隙間から真っ暗な窓の様子をちらりとのぞいた。
鎧戸の隙間から吹き込んだ雨だれが、室内の光を受けて窓ガラスに幾筋も模様を描いていた。
「台風が近づいているんだよ」
カーテンを戻し、大石はマーガレットの横に腰を下ろした。
「台風? 嵐みたいなもの?」
マーガレットが不安そうに問いかける。
「まあそうかな。少し時期はずれだが、明日にはもっと風が強くなると思うよ……どうした? 怖いのか?」
大石が彼女の肩を優しく抱き寄せた。
「いいえ、怖くはないけれど」
マーガレットは甘えるように、大石の逞しい胸元に顔を埋めた。
大石の腕の中にいると、とたんに雨音は遠くなった。
寂しい雨音も陰気な風の音も、大石の強い腕に守られてしまえばもう何ほどのこともない……。
なにもかも外の世界の物事は遠くおぼろに霞んでしまう。
確かなものは、今自分をしっかりと抱いてくれている大石の腕だけのような気がしてくる。


「私、あなたをずっと待ってたのよ」
彼女は熱意を込めて大石にささやきかけた。
……あなたはわかってくださるかしら? 私、寂しかったの……ずっとひとりでしたもの。
「よかった、あなたに出会えて」
大石は彼女の言葉の意味を量りかねていた。
「……うん」
曖昧に大石は生返事を返すと、マーガレットの髪に手を触れた。
雨の湿気を吸ってか、彼女の艶やかな髪がいつもより重いような気がする。
彼を見つめるマーガレットの瞳がなにやら心細げに揺れていた。
外の嵐が心配なのか、彼のいない三日間がよほど寂しかったのだろうか?
「どうした? なんだか元気がないな?」
見開いて黒っぽく見える青い瞳を大石は優しく覗き込んだ。
暖かく微笑む精気に満ちた大石の目を、彼女は腕に抱かれたまま無心に見上げた。
……この方はいつでも元気だわ。弱気になられたところを見たことがない。
そばにいるだけで生き生きとした彼の活力が伝わってくるような気がして、彼女もやさしく微笑み返すのだった。


「雨の匂いがするわ」
「雨の? どこかかび臭いのか?」
顔をしかめてフンフンとあたりを嗅ぐ大石に彼女は小さく首を振る。
「違うわ、雨そのものの匂いよ……どこか苔(こけ)の匂いと似ているの」
「ふうん?」
「嫌いじゃないけど、寂しい匂いだわ」
「それはわかるような気がするな。私も雨の夜は寂しい気持ちになることがあるよ」
「寂しかったわ。ずっと雨だったのよ、あなたがいないのに」
「そんなに?」
寂しかった……と彼女の瞳が訴えかける。
もう寂しくはないだろう? ……と大石の瞳が笑って彼女を抱きしめる。
力強い腕の頼もしさ、温かい胸の懐かしさ。
……ええ、あなたと一緒なら。あなたがそばにいてくれたら。嵐の音も何も怖くないわ。
窓の外では風雨が募っていた。
大石の腕の中で、マーガレットは甘やかな安らぎに満ちて瞳を閉じた。