◆安眠


マーガレットは怒った大石を見たことは一度もなかった。
不機嫌そうな彼ならたびたび目にすることがある。
が、それとて彼女が寄り添うと渋々でも彼は表情を和らげる。
叱られたことは幾度かある。
しかし、それも彼女への強い愛情があってのことだ。
諄々と懇切に諭されたり、真剣な眼差しでたしなめられたことはあっても、理不尽な叱り方をされたことは一度もない。
大石はこの十年間、彼女に対してけっして言葉も表情も荒げることはなかった。
当然、喧嘩になったことは一度もない。
彼女が多少突っかかることがあっても、彼に適当にいなされてしまう。
……どうしても大石さまが一枚上手なのだもの。かなわないわ。
マーガレットは彼女の横で目を閉じている夫の整った横顔を見つめた。
もし本気で彼女に対して喧嘩腰になるような大石だったら、ひどく興ざめするに違いない。
そうはわかっていても。
結婚して十年経つというのに、まだまだ彼女の知らない大石の顔がありそうな気がする。


「私、怒った大石さまを見たことがないわ」
マーガレットは大石に話しかけた。
「……そうだったかな?」
大石は目をつぶったまま答えた。
声はかなり眠そうだった。
もしかすると寝入りばなだったのかもしれない。
「……顔に出さないだけで、怒っているかもしれないぞ」
「あら、どんなとき?」
マーガレットはそんな大石の様子に頓着しない。
「あなたの我儘が過ぎるときとか」
「どんな?」
「どんなって……たとえば、こうやって眠い夫をつかまえておしゃべりを強いるとき、とかな」
大石は薄目を開けてマーガレットの顔を見た。
「ご迷惑でしたの?」
「いいよ、もう。目が覚めてしまったよ」
ため息混じりに大石が言った。
毎度のことだ。
大石が先に眠りかけるといつも彼女に邪魔される。
「ごめんなさい」
素直にマーガレットは謝った。
マーガレットには別に邪魔をしようというつもりはなかったらしい。
自分が眠くなければ、大石もそうだろうとぐらいにしか考えていない。
悪気はないが、あくまでも自分中心なマーガレットだ。
「かわいい顔で謝れば、なんでもそれで済むと思っているところとかな」
「そんな」
マーガレットは困ったような顔で口ごもった。
「実際それで済んでしまうからな、こうかわいいと」
大石は苦く笑ってそんな彼女を抱き寄せる。
「俺も年かな……」
たおやかに身を任せてくる彼女の背を優しく撫でながら大石は日本語でつぶやいた。
寝つきの悪い彼女をぐっすり眠らせるには……簡単なことだ。
しかし、連日となると到底無理な話だ。
しかも今夜のように自分だけが疲れて、肝心の彼女がまだ起きているとなると……大石にしてみれば意気消沈すること甚だしい。
「若い女房を持つと、この先が思いやられる……」
大石が日本語で愚痴る。
「なんですって?」
マーガレットが顔を上げて大石を見上げた。
その無邪気な愛らしい表情に大石はばつが悪そうに微笑んだ。
「いやいや、こっちの話……ただの独り言だ」
大石はマーガレットの柔らかな髪を指でかき上げて、その愛らしい顔にしばし見とれる。
結婚後もずっと変わらぬその美貌、いや、しっとりとした色香が増した分若い頃より勝るかもしれない……そう大石は心底思う。
「すまん、今夜はもう寝させてくれ。明日は早朝から査察に行かねばならん」
そういって大石は彼女の白い額にくちづけた。
「……おやすみなさい」
マーガレットは優しく囁くとキスを大石の唇に返した。
「……おやすみ……と思ったが、やっぱり」
大石はマーガレットを抱く手をそのままにしてひとりごちた。
そしてあとの言葉を日本語で続けた。
「できそうなときは、したほうがいいかもな。もったいない……」
「やっぱり、なんですの?」
不審そうにマーガレットが大石の日本語の呟きを聞きとがめた。
「いや、こっちの話」
「変な大石さま……さっきから何をおっしゃってるの?」
マーガレットは少し気を損ねた様子で大石を咎める。
「もしかして私の悪口? それなら日本語でなく私にもわかるようにおっしゃって欲しいわ」
「悪口なんて言うわけないだろう?」
大石は微笑むと彼女のあごに片手をかけて上向かせた。
「少しあなたを怒らせてみたかっただけさ……。あなたの怒った顔はまた格別だからね」
「また……」
抗議しかけた彼女の唇を大石はキスで塞いでしまう。
「ん……」
大石は彼女をそのがっしりした手で掴んで逃がそうとしない。
しばらくして唇を離すと大石は腕の中のマーガレットをまたからかう。
「……怒ったあなたはかわいいおサルさんみたいだ」
「なんですっ……」
大石は笑ってまたキスで彼女の抗議を封じてしまう。
「怒らなくてもいいだろう? かわいいと言ってるんだから」
マーガレットの耳元にそう大石が囁いたのは、彼女がすっかりおとなしくなってからのことである……。


「……明日海軍省に電話してくれないかな?」
大石は両腕を枕にして天井を見ながらマーガレットに話しかけた。
「え?」
眠りかけていたマーガレットが気だるげに目を開けた。
「夫は寝不足なので休みたいと言っている、と」
「……ご冗談ばかり」
「そうしてくれると助かるんだがな」
大石はぐったりとしている彼女を見て満足そうにしている。
「どうぞご自分で電話なさいませ」
マーガレットは取り合わずまた目を閉じた。
「そうだな、どうせなら若い妻を持つと大変だとでも言ってやるか」
大石はそんな彼女を見てニヤニヤしながら日本語で冗談をつぶやいた。
「また」
マーガレットが目を開けて大石をきゅっと睨んだ。
「ふふ、じゃ英語で言うよ。色っぽい美人の妻が隣にいて……」
「もうけっこうよ」
マーガレットはくるりと大石に背を向けて毛布を被ってしまった。
「……おやすみ」
大石は妻の背中にそう声を掛けると、自分も毛布にくるまった。
(はは、やっと寝られる)
大石はほくそえむと瞬く間に快い眠りに落ちていった。