◆青の女王


「さて、と……」
大石は姿見を見た。
黒のフロックコートに蝶ネクタイ。
肩には金のエポレット。
一分の隙もない厳めしい元帥の礼装姿である。
(マーガレットはもう準備ができただろうか?)
彼女は二時間近く前から小間使いと寝室にこもりきりだ。
女性の化粧をけっして急かしてはいけないのは大石も承知の上ではあったが、そろそろ家を出るべき時刻が近づいている。
S..宮家の夜会に遅れるわけにはいかない。
(様子を見るぐらい、いいかな?)
大石は寝室のドアの前で咳払いをした。
「……入ってもいいかな?」
「どうぞ」
マーガレットの涼やかな声が応じた。
そっとドアを開けて、大石は遠慮がちに中を覗き込んだ。
すらりとしたマーガレットの姿が目に飛び込んできた。
豪奢なブルーのイブニングドレスを身に着けたマーガレットがこちらに背を向けて立っている。
あらわになった白い背と腕が眩しい。
「もう、準備できたのか?」
「……ええ」
マーガレットがゆっくりと大石のほうに振り向いた。
目が覚めるほど美しい。
深みのある青のドレスが彼女の白い肌をよりいっそう引き立てる。
ビクトリア朝風の装身具が彼女の気品におごそかな華やぎを与える。
その気品と威厳は元帥夫人というよりやはり女王と呼ぶほうが相応しい。
大石は声が出なかった。
無言のまま、彼女をみつめている。
「何もおっしゃってはくださらないの?」
マーガレットは大石を見上げて嫣然と微笑んだ。
表情が動くと、とたんに姿態になまめかしさが加わる。
「その、きれいだ……」
大石の声は喉に絡んでいた。
「あら、それだけですの?」
ぎこちない大石の声にマーガレットは可笑しそうに微笑む。
小間使いが一礼して部屋を下がるのを大石は目の端で確認すると、彼はマーガレットの腰を抱き寄せた。
むさぼるように大石は腕の中の美しい妻を見つめた。
「……なんて言わせたい?」
大石はかすれた声でマーガレットに囁きかけた。
「……あなたが思ってらっしゃることを、そのままおっしゃって」
大石の礼装の黒のドスキンの胸に手を置くと、彼女は夫をあでやかに見上げた。
今や女ざかりを迎えた彼女の肌は白く脂が張りつめたように、鈍い光沢を放っていた。
滑らかでいて、しっとりと吸い付くような艶めいた肌。
白くまろやかな肩、もっとまろやかな胸のふくらみ。
大石は強く欲望を感じた。
そしてその裏返しである嫉妬が押さえがたく湧いてきた。
(……他の男の視線が彼女の肌に触れるかと思うと我慢ならん!)
「少し肌を露出しすぎじゃないか? そんなことをしなくても、あなたは十分に美しいのに」
大石は少し不機嫌そうに答えた。


自分の美しい肌をなんのために露出するというのだろう?
夫以外の視線が自分の肌に集まってもマーガレットは平気なのだろうか?
(俺だけのものだ! 許せん!)
大石の目が一瞬狂暴に光った。
部屋の隅のふたりのベッドが彼の視界に入る。
このままマーガレットを抱きあげて連れ去り、ふたりきりの世界で……自分の刻印を強く彼女にきざみつけたい!


大石の目が激情で何度か怖いような光り方をしたのをマーガレットは見た。
手のひらの下の彼の大胸筋がこわばるのがわかった。
そして大石の不機嫌な声と言葉。
以前の若いマーガレットなら涙ぐんでもっと地味なドレスに着替えようとしたかもしれない。
(……また大石さまったら)
いまや彼の心理は手に取るようにわかる。
「もしお気に召さないのなら、もっと地味なドレスに替えますわ」
そう口ではしおらしく言って、マーガレットはにっこりと嫉妬深い夫を見上げた。
「いやそれには及ばん。時間もない。それにとてもよく似合っている……ただな、他の男があなたに目をやると思うとな……」
(あら、今日はすんなりと白状なさったわね)
マーガレットは首をかしげて、大石のむっつりした不機嫌そうな表情に見入った。
「ねえ、大石さま……誰が私を見ようと、私の目にはあなたしか映らないことがどうしておわかりになりませんの?」
マーガレットは甘えるように大石の首に白い腕を絡めて彼にキスした。
念入りに化粧した彼女を気遣ってだろう、大石は遠慮がちにキスを返した。
「……それはわかっているんだが」
大石は彼女の耳に重たげに揺れる青玉のイヤリングを指先でもてあそんだ。
「……こんな重いものを耳たぶにつけて痛くないのか?」
「慣れれば平気ですわ」
「そうか……あなたの青い瞳によく映えるな。きれいだよ……」
マーガレットは嬉しげに彼にまたキスをした。
「せっかくきれいに化粧をしたんだろ? もうよしなさい」
大石は彼女を離して押し戻した。
「さあ、もう行こう。コートは……これか」
彼はマーガレットのコートと自分の大仰な形をした正帽を手にして、彼女を促した。
「あ、大石さま、口紅が……」
マーガレットはハンカチで彼の唇についた自分の移り紅を優しくぬぐってやった。
大石はじっとマーガレットのなすがままになっていた。
まったくマーガレットはため息が出るほど美しい。
近頃、とくに艶やかな色香が増してきたように思える。
この美しさには八十歳以下の男なら誰だって平静でいられないだろう。
(だから心配なんだ。鍵をかけて閉じ込めておきたいぐらいだ)
性懲りもなく大石の独占欲がまた湧いてくる。
「あなたを十秒以上みつめた男には表へ出ろと言ってやる。華族の息子だって容赦はしないからな」
本気か冗談かわからないような口調で大石はつぶやいた……。