◆クリップボード3



その日久しぶりに会った高野から援英艦隊の参謀長に自分が推されていることを聞いた。

『大石がどうしても参謀長に貴様を欲しいと言ってな。軍務局長には俺から話をつける……どうだ? 大石と大西洋に行ってくれるか?』

高野とは原が海軍省局員だったとき、初めて顔をあわして以来の長い付き合いだ。

当時高野は多忙な海軍次官だったが、原の実力を認め、何かと引き立ててくれた。

照和十六年、高野が軍令部総長に就いたときも、原は二年間高野の元で働き、その緻密な能力で高野の懐刀の役目を果たした。

その後、原は海軍省に戻り、軍務課長を務めていた。

――参謀長を務めるにあたって、原は自分の力量にはさほど不安を感じていない。

不安があるとすれば、司令部内の人間関係だ。

高野の取り持ちで、何度か顔を合わせている大石は気さくで人間的な魅力に溢れた男だったが、司令長官としてはどうなのか?

先方がひどく貴様を気に入って欲しがっているからと、高野はさかんに参謀長になることを勧めるが、原自身はまだ大石をよく知らない。

前代未聞の大西洋遠征に向かう艦隊なのだ……あの自信たっぷりな男の腹の内を、よくよく確かめておきたい。

何とかうまくやっていけそうだが、一度きちんと大石の戦略を聞いておきたいと原は考えていた。







     ……そのうちちゃんと派遣前夜のお話を書きたいです。それにはでっち上げ経歴をきちんと埋めていかないと落ち着かない……。







どうして大石は彼女をからかってばかりいるだろう?

結婚したとたん、人を子供扱いして。

……悔しいわ。悔しいけど、そんなあなたがとても……。

「ん? なにか言ったか? ふふ」

大石は彼女の表情を読んだのだろう、にやりと笑う。

彼女を見上げる大石の余裕たっぷりな笑みが、ときどき憎らしくなってしまう。

「きらい……」

唇を尖らせてマーガレットが小声でつぶやく。

大石の眉がほんの少し上がる。

「だい、きらい……」

マーガレットは繰り返した。

「ほお」

大石の唇の端が少し歪んだ。

こういうときの彼の表情は本当に読みにくい。

きらい、と言っておいて、彼女のほうが困った顔になってしまった。

「……」

続ける言葉を失って困った表情のまま彼を見下ろすマーガレットを、大石は意地悪くじっと観察する。

(自分がどんな顔をしているのか、わかっているのかな? あなたほど心の動きがそのまま顔に出る人もいないな)

王族として、女王として、公での表情を作ることには完璧だった彼女だが、プライベートでは驚くほど飾らない。

素直な感情をそのまま素直に顔に出してしまう。

こんなにひねくれた所やいじけた所のない、真っ直ぐな心を持ち続けている大人は稀有だと大石は不思議な気持ちに打たれた。

(生まれ育ちが普通の人間と違うからなんだろうが、それにしても純真すぎる。女の手練手管とかとはまるで無縁なんだから……たしかにそんなことを学習する機会もないわけだ、深窓の姫君ではな)

マーガレットは無言のままじっと自分を見上げる大石に泣きそうになっていた。

「……ごめんなさい、ひどいことを言ってしまったわ……」

(まさか俺が本気にするわけがないじゃないか)

大石は笑い出しそうになるのを我慢した。

「よかった、嫌われたのかと心配したよ」

そう言うと大石は殊勝げな表情を作ってみせる。

「ちがうの、うそを言ったの……」

マーガレットのほうは大石の演技を真に受けてしまう。

「あなたが好きなの、どんなときでも、どうしようもないぐらい大石さまが好きなの……」

疑うことを知らないマーガレットから甘い言葉をたっぷりと受け取り、大石の目尻は満足そうに下がるのだった。

――次の日のお茶の時間。

大石は伯爵に真面目くさって話しかけた。

「高貴なお育ちの方というのは、みんな彼女のようなんですかね?」

一度、伯爵の前で彼女を「マーガレット」と呼んだとき、伯爵の白いゲジゲジ眉がピクッと動いたことがある。

……マーガレット様、と呼ばんといかんのかな? 亭主の俺がそれも変だぞ……。

そうは思ったが、このコチコチの英国老貴族にどう言い返しても無駄というものだろう。

以来、大石は伯爵たちには曖昧に「彼女」といっておくことにしている。

使用人に対しては単に「奥様」で済むからこちらは簡単だ。

「……というと?」

マロウェイ伯は紅茶のカップを置くと、大石に聞き返した。

「その、嘘がつけないというか、純粋すぎるというか……」

自分から言い出しておいて、大石は少し照れてしまう。

「まるきり、心に裏表がない」

「ああ、それは貴人は嘘をつく必要もないからですよ。公の場ではそうは参りませんが」

「そういうものですか」

「マーガレット様のご性格でもあります。あの方はご自分を枉げることをなされない。反面、率直すぎるお方でもあります」

「ああ、なるほど」

大石は自分の前の紅茶のカップにうなづいて見せた。

濃い色をしたダージリンからは、ほのかにマスカットのような香りがする。

「なんというか……あんまり無垢なものだから、扱いに困ってしまうことがありますよ」

またノロケたいのか、とマロウェイ伯は大石の顔をじろっと見た。

たしかに惚れ惚れとするような男振りだが、大石は五十をすぎた初老の男である。

この男がマーガレットの夫だというのが、どうにも伯の感情では釈然としない。

内心の不満を押し隠して、伯爵は慇懃に大石に応じた。

「くれぐれもご大切に願いたいものです。心根のお優しい方ですから」

「ええ、それはもちろん」

にまーっと大石の顔が弛んだ。

伯爵は渋面になった……毎度の事ながらやってられん!

しかし確かなのは、大石を得てマーガレットが一段と美しくなったことだ。

瞳の輝き、甘い笑顔。

少女の頃に戻ったような、のびやかな生き生きとした表情。

マーガレットにとって大石との結婚生活が幸せなものであるのは間違いない。

何かといえばのろけたがる大石にはうんざりさせられるが、ともあれ老伯爵は安心している。







     ……ブレスト条約締結後、女王陛下は「駆け落ち」を強行するという脳内設定なんですが、そのあたりを書かないまま、戦後のお話に突入させているやかん。ちゃんとつなげていかないといけません。







やるせない時間がすぎた。

ただ並んで池を眺める寂しい沈黙を前原が破った。

「あの池の雲……たしかにあの雲なら手が届きそうな気がします。空の雲は遠すぎる……」

前原は足元の小石を拾うと池に投げ込んだ。

ばしゃん……水面は乱れ、波紋が広がる。

前原はきっとして富森に向き直った。

「キスしてくれませんか、いますぐここで」

富森がたじろいだ表情を見せる。

「……できないでしょう、周りを気にするあなたには」

自暴自棄な気分に前原は表情をすさませた。

「いつもそうして手を引くタイミングを考えているんですか? 好きにすればいい、どうせ私なんか――」

黙ったままの富森に腹いせまがいの言葉を続けざまに投げつけていると、虚しさが喉元にこみ上げてきた。

……ちがう。こんなことを言いたかったのじゃない。

前原は両手で顔を覆った。

「前原さん……」

静かな声が彼を抱いた。

富森が思いのたけを込めて、彼を強くその胸に抱きしめる。

前原は目を開けた。

目の前に困惑しきった富森の表情があった。

……またやってしまった……すみません、富森さん……。

前原が荒れようとも富森は見捨てることをせず、辛抱強く受け止めようとする。

抱きしめられた瞬間、前原は富森への愛を強く感じた。

彼の愛情を試すような言動を彼は恥じた。

こんなことをしていると、しまいに嫌われてしまう……そんな危惧が前原の心をヒヤリと冷たくした。

前原が目許を赤くして何か言おうとしたとき、ちょうど昼のサイレンが風に乗って聞こえてきた。

少し遅れてまた違う方向からもサイレンが響いてきて、高く低くサイレンの音が重なり合った。

ふたりは方角を確かめるように、無意識に耳を澄ましていた。

……塩田のほうか? 満鉄桟橋か?

富森は腕の時計を見た。

時計の針はちょうど十二時を指している。

「もう少し、歩きませんか……その、あなたさえ、良ければ」 

富森の気遣うような問いかけに

「ええ……」

はにかむように微笑んでみせて、前原は目を伏せた。

池のほとりにふたりの影が揺れて消え、水面には白い雲だけが静かに浮かんでいた。







     ……前原さんが女々しくなりすぎなのでカット。やかんの脳内の前原さんはどうも女っぽくていけませぬ。







「食べませんか?」

前原が甘栗の袋を差し出した。

通りの露店で買ってきたらしい。

甘栗は天津のものが有名であるが、ここ旅順の名物も甘栗である。

差し出された袋から、富森は甘栗をひとつ取った。

取ったものの、その小さな栗をつまんだまま富森は戸惑った様子で栗を見ている。

「ふふ、皮を剥くにはコツがあるんですよ……いいですか?」

前原は甘栗に親指の爪を立てて、簡単に割って見せた。

「ね? 簡単でしょう?」

見よう見まねで富森も甘栗に爪を立てたが、前原のように上手く皮だけ割れなかった。

「あれ? ヘタクソだなぁ、中身まで割って……いいですよ、私が剥きます」

そう言って前原は次々と膝の上で栗を剥き出した。

「さあどうぞ」

「いや、そんな」

富森はどんどん袋の上に置かれていく、きれいに剥かれた甘栗を前にして躊躇していた。

「せっかく剥いたんですから、食べて下さい」

「いや、そんな、あなたにそんなことをさせては申し訳ない……」

「私も剥きながら食べてますよ」

そういいながら、前原はぽんと自分の口に剥いた栗を投げ込んでみせた。

「すみません……ではいただきます」

「どうぞ」

富森は甘栗をひとつつまんだ。

よく晴れた日曜の昼間、桜はもう終わったとはいえ園内を散策する家族連れがときどきふたりのそばを通る。

背広を着た男ふたり、池のほとりに並んで座って甘栗を食べている図というのは、人の目にどう映っているだろう?

前原はせっせときれいに栗を剥いては、富森の前に並べてくれている。

富森はなんとなく面映い。

「あの、もういいですよ、私は」

「どうしてです? せっかく剥いたのに」

甘栗を手に、前原がチラッと上目遣いに富森の顔を見た。

「いや、なんだか申し訳なくて」

「とにかく一袋みんな剥いておきますからね」

「そんな」

「甘いものは嫌いでしたっけ?」

「いえ、そんなことは」

「じゃ、私が剥いた栗がイヤなんですか?」

絡みながらも前原の目は笑っていた。

二つに割れた皮の中から、小さな丸い栗をきれいに取り出して、前原は富森の顔の前につきつけた。

「私がイヤじゃないのなら、さ、食べて下さい」

「いただきますよ、ちゃんと」

「さあ」

「ちょ、ちょっと」

のけぞって彼の手の栗から逃げる富森に、前原は面白そうに笑い声をたてた。

「こんなところでふざけるのはよしてください」

そう真顔でたしなめながら、前原の差し出す甘栗の実をとりあげると、そのままそれを口に運ぶ。

甘栗を咀嚼する富森の真面目な顔つきに、前原は満足そうに微笑んだ。

そしてまたせっせと栗の皮むきに専念する……。







     ……同じく「池のほとり」のカット部分。このごろは「むき栗」という便利な商品がありますなぁ。ただし、あっという間に食べてしまうので、ありがたみがないというか、もったいないです。