◆海軍下着考


おトイレの次は下着のハナシと、下がかったお題ばかりで失礼しますm(__)m
――海軍さんの軍服の下はどーなっていたのか?
いわゆるフンドシのお話になりますが、どうぞ最後までお付き合い下さい。

帝国海軍軍人の下着は、士官も水兵も全員がフンドシでした。
士官の隠語ではフンドシのことを「エフユー」と呼んでおりました。
FUNDOSHIのFUです。
士官隠語はみなこの伝で、あまり芸がございません。
さてこの「エフユー」、すべて越中フンドシであります。
越中フンドシとは、およそ90×30センチの長い白木綿に紐のついたものです。
締め方はまず布部分を尻側にあてて、腹側のおへその辺りで紐を結びます。
そして布を股にくぐらせ、結んだ紐の内側に通します。
余った布をそのままぺろんと紐に引っ掛け前に垂らしてできあがり。
単純ながらSサイズもLLサイズも着用可能なワンサイズ。
きっちり締めることも、ゆったりめにすることも調節は自在。
通気性がよく非常に優れた下着であった……とはフンドシ経験者の談であります。

士官の洗濯物は、ワイシャツもハンカチも枕カバーも、従兵ではなくすべてプロの洗濯屋さんが洗っておりました。
軍艦には洗濯屋さんが乗っていたのです。
駆逐艦以下の小型艦艇では無理ですが、大きな艦には「艦営傭人」という身分で、洗濯夫・割烹(コックのこと)・理髪手(剃夫と呼んだ)が乗り込んでいました。
彼らは軍人ではありませんでしたが、戦闘訓練ではそれぞれ持ち場がありました。
料金とは別に手当が毎日つくので、陸上で営業するよりも高収入になったそうです。
戦闘に巻き込まれる危険もあったわけですが、自分のお店を持つための資金作りにはもってこいだったといいます。
軍艦の上甲板には洗濯室が用意されていました。
大型洗濯機と回転式乾燥機が設置されており、隣にアイロンを掛ける仕上げ室もありました。
洗濯夫はそこで料金を取って士官たちの洗濯物を引き受けていたのです。
戦艦「武蔵」では総人員数2407名のうち、准士官以上は112名。
この112名の洗濯物を洗濯夫2名が捌いていたのでした。
……忙しかったでしょうね。

洗濯物は従兵が士官私室から集めて、洗濯室へ持っていきます。
ただし、フンドシだけは洗濯に出されることはありませんでした。
「女房以外にフンドシの洗濯をさせないのが、日本男児の常識であーる!」
「汚れたフンドシを平気で他人の目に晒すなど、海軍士官の恥であーる!」
……ということらしいです。
では、フンドシの洗濯はどうしていたのか?
なんと士官のフンドシは使い捨てだったのです。
もったいなーい!
士官浴室の脱衣場には使用済みフンドシを捨てるカゴが置いてありまして、入浴の際、脱いだらポイなのでした。
使用済みフンドシは焼却処分されました。
他のゴミのようにスカッパーから海に流すと、フンドシなんかは沈まずに漂流してしまいます。
日本固有の下着であるフンドシがヒラヒラ浮いていると、その海域に日本の艦がいたことが敵に丸わかりになって、作戦上拙いですからね。
士官の中には、私室の舷窓から汚れたフンドシをポイするお行儀の悪い人もいたそうですが、これはれっきとした違反行為でありました。
「物資不足の戦争末期のことは知らないが(わたしは昭和十五年以後は陸上勤務であったので)少なくともわれわれが艦船勤務の頃、士官は褌や靴下、少なくとも褌は必ず使い捨てであった」
「結婚して陸上勤務になったとき、女房が洗濯してくれた越中褌をしめてみて、褌とはこんなに柔らかいものだったのかと再認識したものである。」

『素顔の帝国海軍』(瀬間喬著/海文堂)より引用

「陸軍のことかも知れませんが、『将校は褌まで従兵に洗濯させる』と言う噂を聞きますが、海軍士官にはとんでもないことです。酒保で一本五銭で買える褌を、洗濯屋に出すのはケチ臭いと思われはしないかと、使い捨てにする士官も多いのです」

『海軍主計大佐の手記』(岩田清治著/原書房)より引用

一方、使い捨てしたくとも、補給の乏しい前線ではどうしていたか?
まず新品のフンドシは紐の部分をちょんちょんと切られまして、タオルとなりました。
そしていいかげんへたってきたら、紐を縫い付けて本来のフンドシになりました。
古くなったフンドシは、両端の痛みの少ないところを縦に裁断して、包帯として使用しました。
……そこまで徹底して利用してもらえれば、フンドシも満足して南の島の土になったのではないでしょうか。

では、江田島の海軍兵学校の生徒たちはどうしていたか?
新入生は入校早々、風呂場に連れて行かれます。
生徒館のお風呂は一度に分隊全員が入れる大きなお風呂です。
そこでまず「娑婆の垢」を落とすことになります。
そして風呂から上がると、上から下まで新品の制服に着替えるのです。
着てきた私服はひとまとめにして実家に送り返されます。
生徒の被服は、軍装も下着もすべてが貸与品で、私有物の着用は一切禁止でありました。
サルマタを常用していた都会の子も、入校したその日からフンドシを強制されたわけです。
被服にはシャツも靴下もフンドシも定数があり、枚数が決まっておりました。
で、フンドシの定数はたったの四枚なのでした。
フンドシは他の軍装のようにクリーニングに出すことを禁じられていたので、生徒たちは屋上の物干し場でごしごし手洗いしていました。
雨が続くと生徒たちは、フンドシのローテーションに四苦八苦したということです。
それが戦争末期になると、物資不足の折からフンドシの定数は三枚に減らされ、しかもそのうち二枚は木綿ではない変なゴワゴワの布地だったそうな。
……洗うと縮んで朝など大変だったそうでございます。
なお、水泳用のフンドシはまた別にありまして、これは種類も締め方も違います。

最後は「フンドシ艦長」の話を。
香港碇泊中の某艦の艦長が厠に入っているときに、敵機の攻撃があったそうな。
すわっ! と艦長は大慌てでズボンを引き上げると厠から飛び出して艦橋に向かいました。
艦橋の前に立ち、てきぱきと対空戦闘を指揮する艦長……。
……やがて敵機は去り、それ以上の敵襲もなく、空襲警報解除となりました。
それまで上空を睨みっぱなしだった航海長は、自分の前に立つ艦長の腰の辺りから、なにやら白い布がヒラヒラしているのに気がつきました。
艦長は急いで厠から出てきたので、フンドシを締めるのを忘れていたんですね。
航海長はさっそく艦長に「源氏の白旗」というあだ名を進呈したそうです。
源平の昔、平氏は赤を源氏は白の長い旗をヒラヒラと旗印に用いておりました。
なんとも優雅なあだ名でございます……。