◆変人参謀
磯貝くんは真面目で人はいいけれど、事務能力のない困った参謀――
OVAでのノンキそうな磯貝くんから勝手にイメージしていますが、実際にそんな困った参謀はいたのでしょうか?
立案に関わる参謀が、書類を前にモタモタしていたら大変なのですが、そんな大変な参謀もどうやら実在されたようです……。
今回は「変人参謀」「仙人参謀」とあだ名されていた黒島亀人海軍大佐のお話です。
黒島さんは太平洋戦争中の連合艦隊司令部の先任参謀でした。
山本五十六長官の信任厚く、長官の意を受けて真珠湾攻撃やミッドウェー海戦を立案したのが黒島参謀であります。
そんな黒島さんがなぜ「変人参謀」なんて呼ばれていたかというと……文字通り「変人」としか言いようのない人だったからです。
1)食事になっても出てこない。
司令部は長官室の隣の公室で三度三度食事をとります。
とくに昼食はフランス料理のフルコースで、出席者はきちんと軍服を調え、司令長官を囲んで毎日優雅に会食していました。
なのに黒島さんは食事時になっても出てこない。
なにをしているかというと、自分の私室にこもってひたすら瞑想をしているのでした。
2)私室は汚部屋。
黒島さんはヘビースモーカー。
ひっきりなしにタバコを吸い、タバコの灰をその辺に撒き散らしました。
身辺の小物は出しっぱなしの散らかしっぱなし。
机の周辺には書き損じの紙きれやノートやメモのたぐいがごちゃ混ぜの山になってます。
気が散るからと、舷窓の蓋を閉じて灯りもつけず、室内はいつも真っ暗。
その真っ暗な乱雑な部屋の中で、お香をモウモウと焚いていたりするので、黒島さんの私室はほとんど魔境でした。
3)月に一度しか風呂に入らない。
潜水艦ではあるまいし、長門にも大和にもちゃんと司令部用のお風呂が用意されています。
なのに黒島さんは着替えもせずに汚いままでいたといいます。
あまりの汚さに、見かねた従兵長が私費で着替えを買い整えて、強制的に着替えさせたという逸話も残っています。
4)服装に無頓着
端正な軍装を求められる海軍士官でありながら、軍服はヨレヨレ、襟は真っ黒。
ご本人が不潔なんですから処置ナシです。
珍しくお風呂へ入ったと思えば、帰りなどとんでもない格好のまま私室に戻られたとか。
――連合艦隊の黒島参謀は、風呂の帰りはタオル片手に“ブラ金”のまま艦内通路を歩いている――という伝説が当時からあったそうです。
戦後のある座談会で、司会者が
「黒島さんは“ブラ金”で艦内通路を歩いておられたという噂を聞いたことがあるんですが……」
と、司令部の従兵経験者に水を向けたところ、元従兵さんは
「いえいえ、真っ裸ではありません、ちゃんとフンドシをされていました」
と答えた記録がありました。
この証言で、黒島さんはさすがに真っ裸ではありませんでしたが、フンドシ一丁で平然と通路を歩いていたことが明らかにされたのでした。
軍律厳しい戦艦で海軍大佐ともあろう人が、それも連合艦隊司令部の先任参謀が、フンドシ一丁で歩くとは。
軍紀上まことにけしからぬ参謀であります。
こんな変人ぶりが帝国海軍でなぜ許されていたのでしょうか。
それは黒島さんが山本長官のお気に入りであったからです。
「いいじゃないか、そのぐらい彼は作戦に全身全霊で打ち込んでくれているんだよ」
五十六さんは事あるごとにそう言って、黒島参謀を庇ったといいます。
「君たち参謀は十人いれば十人とも同じ作戦を考える。だが黒島は人と同じ発想をしない。だから僕は誰がなんと言おうと黒島を離さないんだよ」
そうも言って山本長官は黒島さんを褒めていたそうです。
そんな山本長官の庇護の下で、黒島参謀は自分だけの世界に閉じこもることを許され、規律も実務も一切放擲して作戦研究だけに打ち込んでいたのでした。
山本長官の意を受けて黒島参謀が立案し、山本長官が作戦を決定する――これが連合艦隊司令部のスタイルでした。
……あれ? 参謀長は?
そうなのです、山本長官の連合艦隊では参謀長の影がひどく薄かったのです。
なぜか?
山本長官が参謀長を嫌っていたから。
五十六さんは大変情の厚い人でしたが、人の好き嫌いが激しかったといいます。
三国同盟への加盟の是非を巡って海軍内が二つに割れていたとき、五十六さんは断固反対派でした。
一方、この参謀長は自身の考えは同盟反対派であったのですが、役職上やむなく条約書類にハンコをついた経緯がありました。
以来、この参謀長はすっかり五十六さんに敵視されてしまった――というのが一説。
それでなくともこの参謀長はひどく我の強い人物――倣岸な態度から黄金仮面のあだ名を持つ一癖も二癖もある宇垣纏(うがき・まとめ)でしたから、相性が元々悪かったともいいます。
宇垣さんが連合艦隊参謀長に着任したのは、開戦直前の1941年8月でした。
じつはもっと前に就任する話があったのですが、山本長官が
「宇垣少将? 彼はまだ戦隊司令官の経歴がないじゃないか。他の人に換えてくれ」
と嫌いな宇垣さんに難癖をつけて断ってしまったのです。
山本長官の反対で、いったん他の人が参謀長になりましたがすぐに転出し、四ヵ月後再び宇垣参謀長案が浮上してきます。
たった四ヶ月ですが今度は戦隊司令官の経験も積んできた宇垣さんに、これ以上ケチをつけることもできず、山本長官はしぶしぶ宇垣さんを参謀長に迎え入れました。
そんなこんなで山本長官とその幕僚というすっかり出来上がった仲良しグループにポンと投げ込まれた、招かれざる参謀長が宇垣さんでした。
山本長官は黒島参謀を重用して、宇垣参謀長にとくに意見を求めることをしませんでした。
長官が無視するものだから、幕僚たちも右に倣えで宇垣さんに近寄らない。
艦隊司令部で宇垣さんは孤独でした。
上陸時も宇垣参謀長はわざわざ山本長官たちと別の料亭で、ひとりで飲んでいたそうです。
好き嫌いが激しく、特定のスタッフを偏愛した司令長官。
長官に嫌われて孤立してしまったきつい性格の参謀長。
プランニングにだけ熱心で、協調性も事務能力もない変人先任参謀。
チームワークがガタガタだった連合艦隊司令部を、いったい誰が運営していたのでしょうか。
作戦参謀が秀才であるうえに人当たりも良い人物だったので、彼が無視されてる参謀長と変人参謀の間を行き来して、重要書類を取りまとめていました。
また戦務参謀が愛嬌があって人に好かれ、よく気の利く人物だったので、彼が細々とした事務や連絡を引き受けていました。
こんな有様の司令部では、緒戦の真珠湾では上手くいっても、いずれ破綻することは想像に難くありません。
不運も重なりましたが、司令部の連絡ミスや見込み違い・思い込みで日本海軍はミッドウェーで取り返しのつかない決定的敗北を喫するのでした。
頬骨の高いその異相から「ガンジー」ともあだ名されていた黒島さんは、どうもあまり評判がよくありません。
その変人参謀ぶりも、名参謀・秋山真之を意識したポーズではないかという、意地の悪い見方が当時からありました。
日露戦争の秋山先任参謀も相当な変人だったのは事実です。
残されている変人逸話としては
1)服装に頓着しない、いつ風呂に入ったかわからない、机の上は常に乱雑。
2)ポケットに炒り豆を入れていて、勤務中でもポリポリ食べている。
3)参謀室で平気でおならをする。
しかも周囲に詫びるでもなく、自分でブッとしておいて「ああ、屁か」と他人事のようにつぶやく。
4)会食のテーブルについていても、周りにお構いなく自分のペースで食事をする。
あるときなど、まだ長官がデザートを食べているのに、靴下を脱いで水虫の手入れを始めたことがあった。
『知将秋山真之』 生出寿著 光人社 より
こちらも相当な変人奇人です(^^;
ただし秋山参謀は書類作成が恐ろしく早かったそうです。
普段から物事を整理して考える非常に頭のいい人だったので、常に頭の中に書類が出来上がっていたのでしょう、筆を取るとそのままスラスラと書いてしまって、推敲の必要がなかったといいます。
早いだけではなく名文家でもあった天才秋山参謀にとって、命令書作成などなんの苦もない作業だったのでしょう。
秋山さんは変人でしたが、理路整然とした明解な命令書を書き上げ、事務的な各種作業も迅速に行いました。
ところが黒島さんは
「部屋の隅に目を通していない書類が山積み放置されている」
なんて噂があったくらいで、瞑想して作戦アイデアを練るばかりでその他の参謀業務には無関心でした。
黒島参謀の作戦は奇想天外で精緻、芸術的なほど手が込んでいます。
裏を返せば、細かすぎて柔軟性がない、想定外の展開に対応しにくい、ということでもあります。
それなのに事前の情報収集をおろそかにしたうえ
「第二次攻撃は行うのか」
「攻撃目標はどちらを優先するのか」
実施部隊とそんな取り決めさえしっかり確認しなかった山本司令部は、怠慢粗雑とそしられても致し方ありません。
ミッドウェー海戦から10ヵ月後、前線巡視に出た山本長官はブイン上空で撃墜され戦死。
ひどい下痢をしていた黒島参謀は長官に同行できず、長官戦死の悲報をラバウル基地で受け取りました。
――四ヵ月後、黒島参謀は軍令部第二部長に転出、特攻兵器の開発に専念。
戦後は家族を捨て、親交のあった未亡人宅に寄寓し、彼独自の思索の世界に没頭して暮らしました。
世捨て人のような瞑想三昧の生活を送り、昭和40年、肺がんで死去。
最期の言葉は
「南の空に飛行機が飛んでいく」でした。
黒島さんの瞼に浮かんだのは、南の空に消えた山本長官の飛行機だったのか、機動部隊から飛び立った第一次攻撃隊だったのか――
享年72歳でした。