◆カフェイン


「もっと早くにあなたとお会いしていたら」
マーガレットが大石の肩に頭を預けてつぶやいた。
「ん?」
大石が目を開ける。
「あなたにもっと早く会いたかったの」
甘えるように額を大石の肩にくっつけると、堅く締まった腕にそっと唇をつける。
大石はマーガレットを片腕に抱いた。
眠気がまだ気だるく彼の体に残っていた。
「……どうして?」
「もっと早くから愛してほしかった」
「うん……」
大石はまだ眠たげである。
マーガレットもそれ以上は言わず、おとなしく大石の胸を枕に目を閉じた。
緩やかに大石の胸が上下している。
左の胸の上に手を置くとその鼓動が伝わる。
彼女の鼓動より遅いゆっくりとしたリズム。
「……どうした?」
大石が胸の上の彼女の手をつかんだ。
マーガレットは答えずに彼の胸に顔を埋める。
……愛しい人。
すべすべとしたなめし皮のような浅黒い肌。
ひんやりとしたその感触を楽しむように、彼女は唇を大石の肌にそっと押し付けた。


もっと早くに大石と出会っていたなら。
一年でも一月でも、余分に大石を愛せたのに。
大石に出会うまでの毎日は今から思うと色彩のない世界のようだった。
お互いが相手の存在に気づかずに別々に生活していたなんて、なんて時間を無駄にしたのだろう。
……あなたは私とまだ出会っていない頃、寂しくはなかったの?


「……ん」
彼女の唇の感触に、うとうとしていた大石が身動きした。
マーガレットはまたおとなしく彼の胸に顔を伏せる。
大石が大きく息をついた。
彼女の頬の下で大石の胸が上下した。
「……眠っちゃいかんのか?」
眠たげに大石が文句を言った。
マーガレットは目を開けたままじっと息を潜めた。
「言いたいことがあるなら早く言いなさい。ちゃんと聞くから」
大石の不機嫌そうな声に彼女は首をすくめた。
「……いいえ、何もお話はないのよ。まだ眠くないだけ」
「私は眠いんだがなぁ……」
「ごめんなさい。もうおやすみになって」
「寝かさないのは誰だ……そんなことを言って」
大石は胸の上に身を寄せているマーガレットを両腕で抱き取った。
マーガレットは子猫のようにおとなしく彼の腕にしっかりと抱かれた。
「ああ……コーヒーのせいだな。遅い時間にあなたにコーヒーを勧めるのはもうよそう……」
大石は眠たげに目を閉じたまま、ため息混じりにつぶやいた。
「……大石さまのコーヒーは濃すぎます」
大石の胸に頬をつけたまま、マーガレットはそっと言い返した。
「私のコーヒーに文句をつけたのはあなたが初めてだ」
大石はパッチリと目を開くと、胸の上のマーガレットの顔を咎めるように見た。
大石の腕に抱かれたままのマーガレットが彼の目を無邪気に見返す。
薄暗がりの中に彼女の白い顔と白い丸い肩がなまめかしく浮かんでいた。
「薄めのコーヒーなんぞ、私に言わせれば邪道さ」
大石はふたりの身体を覆う寝具を引き剥がした。
彼女の白い裸身があらわになった。
いきなり冷たい夜気に全身を晒されて、マーガレットは大石の腕の中で寒そうに身体を丸める。
「でも私のコーヒーのせいで眠れないのなら……」
大石はおもむろにマーガレットをかかえ直した。
「責任を取らなきゃな……」
そのまま腕に力を込めて彼女を抱き締めるときゅっという声が彼女の唇から漏れた。
大石は薄く開いたその小さな唇にゆっくりと唇を重ねていった。


*      *      *      *


「コーヒーを淹れるが、あなたはどうする?」
次の夜遅く、書斎から出てきた大石がマーガレットに訊いた。
居間のソファで取り寄せたモード雑誌を眺めていたマーガレットが顔を上げた。
部屋の境のドアに片手をかけて大石が片頬だけで笑っている。
大石の笑いの意味に気がついて、マーガレットは赤くなった。
「……いただきますわ」
きゅっと大石をにらむと彼女は取りすまして答える。
「ふうん……」
大石の眉が少し上に上がって意味ありげな顔をした。
「あなたも飲むのなら少し薄めに淹れてみるか」
大石はそうつぶやいた。
「いいえ、お気遣いなく。いつもの大石さまのコーヒーで結構よ」
「ほう。眠れなくても今夜は私は知らないからな」
からかうような大石の言葉にマーガレットはつんとすましてみせる。
大石はクスクス笑いながら書斎に姿を消した。
しばらくしてコーヒーのいい香りが書斎から流れてきた。
真剣な表情でコーヒーを淹れているだろう大石を思ってマーガレットは微笑んだ。
……変わったご趣味ね。
ほどなくして大石がコーヒーを運んでくる。
目の前で薫り高いコーヒーがカップに注がれた。
「さあどうぞ」
大石が笑みを浮かべて妻にコーヒーを勧めた。
「少しだけ薄めにしてみたんだが、どうかな?」
「そんな、よろしいのに……」
マーガレットは申し訳なさそうにつぶやいた。
「あなたに喜んで欲しいからな」
大石はカップを手に、マーガレットの隣に座り込む。
(優しい方ね……)
彼女は目で微笑み返し、手にしたカップからコーヒーを一口飲んだ。
こくっ、と白い喉が動く。
「……おいしいわ」
にっこりと彼女は大石に微笑む。
(……この笑顔のためなら俺は泥水のコーヒーでも飲むだろうな)
そう思うが口には出したくない。
ただ彼女の笑顔を見守りながら、大石もカップに口をつける。
「……そう悪くはない」
大石にすれば少し頼りない味だが、寝る前のコーヒーにはこれぐらいでいいかもしれない。
「私はもう少し本の続きを読んでおきたいから、あなたは先に寝てなさい」
コーヒーを飲み干すと大石は妻の髪を軽く撫でてそう言った。
「待ってなくていいよ」
ソファを立ち上がりざまにおやすみのキス。
大石は書斎に消えた。
急に居間が寂しくなった。
マーガレットは書斎に大石を追って彼に甘えたくなった。
(でも、あまりわがままを言ってはいけないわね)
マーガレットはつまらなそうにモード雑誌をテーブルの隅に押しやった。
(ずっとおそばにいたい。一分一秒も惜しいぐらい……)
マーガレットはため息をついて寝室へと引き上げかけた。
「マーガレット。本の続きをベッドで読んでいいかな? あなたの邪魔にならなければ、だが」
大石が書斎のドアから顔をのぞかせた。
「大石さま」
マーガレットは嬉しげに大石の腕にすがりつく。
「あんな悲しそうなため息をつかれたら、そうでもしないとな」
「うそ。聞こえるはずがないわ」
「じゃあ、やっぱりため息をついたんだな」
大石はおかしそうに笑って彼女の肩を抱いた。
二人は寝室のドアの向こうに消えた。