◆舵(かじ)取り


やあ、こんにちは、見学ですか。
……あ、磯貝参謀なら朝から他の艦に出向いてましてね。
ええ、留守にしてるんですよ。
なんなら代わりに私がご案内しましょうか。
なぁに、碇泊中は手が空いてましてね。
……申し遅れました、私は航海長の早水です。

さぁてと、どこへお連れしましょうか?
……高いところはもうこりごり? ははは、承知しました。
じゃ、艦で一番安全な場所にご案内しましょう。
どこだと思います?
……艦橋? 惜しいな。
艦橋も頑丈に作ってはありますがね。
正解は艦橋下部にある司令塔です。
特殊な分厚い鋼板で覆われてまして、主砲の直撃にも耐えられます。
ま、行ってみましょうか。

司令塔というのは、元来は戦闘時ここから幹部が指揮を取るための場所なんですが、実際は長官も艦長も防空指揮所へ登られます。
どうも日本軍には指揮官先頭の伝統がありましてね。
防空指揮所は露天ですから危ないんですが……。
日本海海戦で、東郷元帥はどんなに幕僚がお願いしても司令塔に入ろうとされず、砲弾が行きかう吹きさらしの前部艦橋の上で、戦闘が始まってから終わるまで一歩も動かれませんでした。
水浸しになった床で、東郷元帥の靴跡だけが乾いていたそうです。
痺れなかったんですかね、足。
困った前例をお作りになったものです、ははは。
……さ、着きました。
扉からしてえらく分厚いでしょう。
出入り口はここ一箇所のみで、強固な防御扉になっています。
さて、この横長の広い部屋が司令塔……内部は操舵室兼用となってます。
真ん中のあれが、この艦の舵取り装置、舵輪(だりん)です。
車でいえばハンドルにあたる、なんてことは見ればわかりますね。
艦は舵が利かなくなったらおしまいですから、艦で一番安全な司令塔内に操舵室を置くわけです。
舵輪の両側にあるのが、速力指示器(テレグラフ)、戦闘時と出入港のときは専属の当直員が就いて機械室に速度を伝達します。
前面にあるのが転輪羅針盤(ジャイロコンパス)、その向こうのが磁気羅針盤(マグネットコンパス)です。
操舵員はこれを見ながら、舵がぶれないよう保針に努めます。
海には潮流も波もありますから、舵はほっておくとどんどんぶれてしまうんですよ。
私は上の艦橋で「針路そのまま」のひとことで済ましてますが、下の操舵室では操舵員が「そのまま」を保つためにずっとがんばっているんですね。
……この羅針盤のマグネットは鉄の影響を受けやすくてですね。
海軍士官が陸サンのように仰々しく腰に軍刀を吊らないのは、この磁気羅針盤に悪影響が出てはいけないからです。
今はともかく、日清日露の時分は磁気羅針盤だけが頼りでしたからなぁ。
さっきの話の東郷元帥、日露戦争時の連合艦隊司令長官でありますが、この方は例外でいつも長剣を佩用(はいよう)されていました。
幕僚たちは『コンパスが狂ってはいけませんので艦橋ではお外しください』と何度もお願いしたんですが、ぜんぜんお聞き入れにならなかったそうです。
なんでも皇太子殿下から拝領した名刀で、元帥は終生肌身離さずお持ちだったとか。
なかにはそういう方もいらっしゃいましたが、そんなわけで海軍は短剣。
しかも航海中は着けません。

この天井から下がってきている真鍮の管が伝声管です。
ここの真上がちょうど艦橋なわけでして、上から私が『取舵一杯』とか号令をかけると、操舵員が復唱して舵輪を回します。
もちろん受話器を外せばすぐ繋がる直通電話もあるんですが、艦橋とのやり取りにはわざわざ使いませんなぁ。
なんとも前時代的に思われるでしょうが、この伝声管、なかなかどうしてよく聞こえるんですよ。
蓋を開けっ放したままで内緒話でもしてようものなら、艦橋に筒抜けでしてね。
……どうです? ここは真っ直ぐ前方を見渡せて、すっきりとした眺めでしょう。
正面に艦首旗が見えますね。
ここでビル四階ぐらいの高さです。
このぐらいの高さなら、窓を開けても風もそう強くなく、なかなか快適なもんです。
昼寝にはもってこいの場所で……な、そうだろ? 操舵長。
……ははは、そこに板張りの広い台があるでしょう。
本来は海図台なんですが、ここで海図を広げることはまずないので、もっぱら非番操舵員の昼寝場所になっております。

ヨーソロー、という号令は耳にされたことがありますね。
「宣う候」から来たとされてますが、万事横文字が幅を利かす海軍にしちゃ面白いと思いませんか?
のんびりした語感があって、海軍というより水軍の匂いがしてきそうじゃありませんか。
幕末の海軍では、これに輪をかけて
『そろそろ機械(からくり)回そうでは御座らぬか』という艦内号令詞を使っていたといいますよ。
いやはや、そこまでいくと悠長すぎますが、うちの古風な艦長なら似合うかもしれませんなぁ、ははは。
ヨーソロー、意味は直進、針路そのままです。
面舵は右に回頭、取舵は左に回頭で、それぞれ『オモーカージ』『トォォリカージ』と間延びさせて発声します。
……先刻ご承知でしたか? そりゃそうですね、ここまで見学にいらっしゃるんだから。
じゃ「あて舵」というのはご存知ですか?
ははは、これはご存じなくて普通です。
舵というのは一度変針すると惰性がついて、ほおっておくとそのままどんどん回っていきます。
なので適当なところで反対の方向に舵を取ってやるんですな。
これが「あて舵」です。
仮に左45度に変針させたい、としたらですね、まず私が艦橋から「取ー舵」と号令をかけます。
伝声管を通じてこの号令を聞いた操舵員が『トォォリカージ』と復唱し、舵輪を15度回転させます。
取舵といえば左に15度(重巡以下の艦は20度)回転することになっています。
面舵も同様に右に15度です。
舵輪を回転し終えたら『取舵15度』と操舵員が報告してきます。
艦は大きいものですから、すぐには艦首は反応しません。
ちょっとずつ回り出してだんだんと加速しながら、ぐぐっと左前方に進みます。
10度……15度……30度……。
で、この辺かな、というところで抑えにかかります。
「戻ーせー」
『もーどーせー……舵中央』
左15度になっていた舵輪を操舵員が元の位置に戻します。
しかしまだ艦は惰性で左に回り続けています。
タイミングを見計らって、今度は右に舵を切って勢いを殺さなくてはなりません。
「面舵にあてー」
『オモーカージにアテー……面舵7度』
あて舵は戦艦なら7度、それ以外なら10度です。
これもまたころあいを計って舵を戻します。
「戻ーせー」
『もーどーせー……舵中央』
これでゆっくりと艦首は動きを止めていきます。
ころあいが正しければ、ピタリと予定の左45度の針路になっているんですな。
これはもう、勘と経験だけが頼りです。
一度でぴったり針路を合わせられれば、気分は上々ですよ。
針路が定まったところで「45度ヨーソロー」と号令をかけます。
『45度ヨーソロー』
操舵室からも復唱が返ってきます。
あとは操舵員がこの針路を保持してくれます。
これで変針完了です。
穏やかな海ならともかく、荒れているときや潮の流れの激しい場所での変針は、加減が実に難しいもんでしてね。
ましてや、戦闘中はね。
戦闘中、および操艦の難しい狭水道通過、入出港は艦長か航海長が操艦するきまりになっています。
日本武尊は幸い操艦上手で名の売れた富森艦長ですから、文字通り、大船に乗った気分でいられますよ、ははは。
……「面舵一杯」ですか?
ああそれはね、右35度のことです。
取舵一杯なら左35度。
ごらんなさい、舵輪には35度までしか目盛りがないでしょう。
目盛り一杯まで舵輪を回せ、という意味ですよ。
緊急回頭だとこれに「急げー」という号令をつけます。
通常航海ではそこまで滅多にしませんよ。
あんまり乱暴な舵取りをすると、みんなが船酔いしちまいますからね。