◆ダイヤのキング


頭痛がするからと言って引きこもった居室で、彼女はぼんやりとカードを手にしていた。
誰にも会いたくない。
誰とも話したくない。
このところときおり女王が起こすサボタージュである。
……だめだわ。もう動かない。
女王は役に立たなかった手札を崩してテーブルに置いた。
……手詰まり、行き止まり。今の私みたい。
悲しげな目で女王はまたため息をついた。


大石の旭日艦隊が英国近海を去ってから半年近い月日が経った。
日米は英本土防衛を諦める腹づもりらしい……旭日艦隊も近く援英任務から手を引くのではないか――そんな憶測が英国内を飛び交っている。
もはや独軍の本土上陸は阻止できないのではないかという見方は軍内部にもあり、王室と政府を海外に亡命させる話も具体化しつつある。
必ず英国を守ると彼女に誓った大石の言葉を疑うつもりはなかったが、本国から撤退命令が出されれば大石も軍人である――従わざるを得ないだろう。
……でも、あの方のお気持ちは決して変わらないはず。
日本が英国を見捨てることになっても、大石の心までは彼女から去りはしないと女王は信じたかった。
(――信じなくては未来は勝ち取れません)
そう力強く彼女を励ました大石の声とまなざしが胸の奥に甦る。
それでも敗色濃い英国内の連日の被害報告と旭日艦隊撤退の噂の前に、女王の心は千々に乱れるのだった。


思い直したようにカードを手に取ると、彼女は二枚の絵札をカードの束から選び出すと、テーブルにそっと並べて置いた。
……ハートのクイーンは私。大石さまは――ダイヤのキング。
マーガレットがダイヤのキングを選んだのにはわけがあった。
ずいぶんと昔、マーガレットがまだヨーク公女だった頃、フランス人の家庭教師が教えてくれた恋占いにメアリとふたりで興じたことがある。
何にでも真剣になるメアリが、教わったとおりにカードを一枚一枚取り除いてみせた。
「私が結婚する人はハートのジャックだわ……ハートのジャックは詩人、真面目でナイーブなハンサムな青年ですって!」
メアリが興奮して囁き、家庭教師から借りた本の一節を指し示した。
「次はおねえさまを占って差し上げる!」
マーガレットは言われるままにカードの束を何度かシャッフルし、メアリに渡した。
メアリは重々しくうなずくと姉からカードを受け取り、また最初から占いだす――


……あれはケンジントンの宮殿だった。
ヨーク公一家が毎年冬のシーズンを過ごした賑やかな冬宮殿を、戦争前の穏やかな少女時代を、マーガレットは懐かしく思い起こした。
あのとき、占い師気取りのメアリが姉のために重々しく選びだしたカードが、ダイヤのキングだった。
「ダイヤのキング……ちょっと待って、ご本を見るから……ダイヤのキングは大金持ち、浅黒くて思慮深い年配の男性、ですって。もしかしてお姉さまのお相手はアラブの王様じゃないかしら?」
真面目そうな鳶色の瞳を輝かせて、メアリが姉姫に囁いた。
「いやぁね! アラブの王様はみんなお后が何人もいるんでしょ!」
マーガレットが言下にそう言い返して、ふたりのプリンセスはくすくすと笑いあった……。


マーガレットは大石に模したダイヤのキングをじっとみつめた。
遠い目をしたキングの横顔が、慕わしい大石の面影に重なり合う。
あのときのメアリの占いはあながちデタラメでもなかった。
カードの予言どおりにメアリは若いギリシア王子と結婚し、マーガレットは年の離れた日本人の提督に恋している。
……メアリがハートのジャックと結ばれたように、私も私のダイヤのキングと結婚できればいいのだけれど、大石さまと。
またひとつため息をつくと、彼女は残りのカードを少しぎこちない手つきでシャッフルして、四枚ずつローズウッドのテーブルに並べていった――
儚いカード占いではあったが、カードを手にしたマーガレットの表情は真剣だった。
彼女の華奢な白い手で一枚また一枚とカードが動かされていった――まるでふたりの恋路をたどるように。


今度の占いはゆっくりとだが着実にカードが動いていった。
カードは順番に積まれていき、すぐにも完成しそうだった。
だが、一枚のカードがどうしても動かない。 
またも行き詰まってしまった恋占いに、マーガレットは苛立たしそうに唇を噛んだ。
最後まで動かなかったスペードのジャックの陰気な暗い顔つきは、どこかヒトラーに似ているような気がした。


仮王宮の奥深く、女王の居室はしんと静まり返っている。
……この恋は実るかしら?
カードと向かい合って何度も何度も繰り返す、孤独な恋占い。
ただの時間つぶしにしかならないとわかっていても、こんなはかない遊びごとに頼ってしまう心の弱さ。
悲しげな吐息をついて、やはり完成しなかったカードの列を崩すと、女王はテーブルをそのままにしてマントルピースへ歩み寄った。
飾り棚の中央に置かれた真白い小さな天使の彫像に彼女はそっと手を触れる。
天使の冷たくすべらかな丸い頬に触れながら、彼女は大石を想った。
この天使の前で彼女に愛を誓った大石の言葉を、ほんの少し茶色味を帯びた大石の力強い瞳を、彼女は想いかえす。
(――しっかりと気持ちをお持ちなさい。きっと私が何とかいたします)


東の果てから強大な艦隊を率いて英国を救いに来た大石と、彼女はいきなり恋に落ちた。
神聖な誓いを破り王冠と国を捨てでも、彼を得たいと思いつめるほどに。
(――あなたは女王なのだから。英国国民の誇りなのだから)
彼女の弱気を諌めた大石の声が耳元に甦る。
ノブリス・オブリージュ――高貴な身分に生まれた者の義務。
どんなことがあっても忘れてはいけないとされる、国民への義務。
……私が義務を放棄することを、皆に許してもらおうとは思わない。ただ世界でひとり、大石さまが許してくだされば。


「陛下――」
遠慮がちな侍従のノックに女王ははっと顔を上げた。
「陛下、明日の御前会議につきまして、チャーチル卿が急ぎお目通りを願い出ております」
突然の参内を伝える侍従に、女王はいつもどおりの威厳のある声で応じた。
「執務室にお通しなさい」
多忙なチャーチル卿がわざわざ仮王宮にやってきたのは、何事か変事が起こったからに違いない。
ここ数日チャーチル卿たち政府首脳が、英国の今後の方針をめぐって日夜激論を戦わせているのは承知している。
ウェールズ要塞で徹底抗戦を図るか、それともナチスとの単独講和交渉に踏み切るか。
十一年目に突入した大戦に、英国はもはやこれ以上の戦争継続が無理なほど疲弊しきっているのだ。
……どんな知らせにも平静でいなくては。
緊張に青ざめながらも、女王はしゃんと背筋を伸ばしまっすぐ瞳を上げて執務室へ向かう。
主の去った居室には開かれた絵札が残されていた。
遠い目をしたダイヤのキングと、憂いを帯びたハートのクイーンが。