◆きのうの薔薇〜続き


「大石さま、書斎にいらっしゃるの?」
ベッドから起きだしたマーガレットが、大石の姿を求めて居間との境のドアをそっと細めに開けた。
書斎のひんやりとした空気が居間の床にすうっと流れこむ。
その空気の流れに動かされて、大石の白い便箋がふわりと床に舞った。
……あら?
床に落ちた紙を優雅な仕草で拾い上げると、マーガレットは何気なく文面に目を走らせた。


電話での打ち合わせを済ませ、大石は二階への階段を身軽く上っていた。
踊り場の高窓からサァーッと冬の日差しが斜めに差し込んだ。
冬の綿雲が風で千切れたのだろう。
装飾を施された階段の手すりに軽く手を触れながら、踊り場を大またに通り過ぎる大石の広い背に、日が淡く揺れていた。
階段を上りきるとつかの間射していた陽がまたすっと翳ってしまった。
急に暗くなった廊下を渡り、大石は書斎のドアのノブに手をかけた。
薄暗い室内に人影を認めて、大石の眉が不審そうに僅かにひそめられた。
すらりとした優美なシルエットはマーガレットのものだ。
「いいのか、起きだしたりして?」
大石の声にマーガレットはゆっくりと顔を上げた。
寝間着の上にガウンを羽織っただけのマーガレットが居間とのドアの境に棒のように立っている。
彼女の手からはらり、と便箋が滑り落ちた。
うつろに大石を見上げるマーガレットの顔には血の気がなかった。
そのままふらり、と彼女は床に膝をついてしまう。
一切の事情を見てとった大石が慌てて駆け寄り、彼女を抱き起こした。
彼女の手は氷のように冷たくなっていた。
「ああ、いらんものを読んだりして」
床に落ちた紙片をくしゃりと片手で丸めると、大石は書斎の壁に向かって乱暴に投げ捨てた。
「しっかりしなさい。あんなものは気にしないでくれ」
カーディガンの胸にマーガレットを抱え込んで、大石は必死に彼女を宥めにかかる。
「今はこうして夫婦になれただろ? もうどんなことがあっても、あなたを離さんよ」
彼女の髪を撫でながら、大石は言葉に力を入れて熱っぽく囁きかけた。
こんな物騒な下書きを、マーガレットの目に触れる場所に放置していたことを大石は悔やんでいた。
……迂闊だった、マーガレットはよく寝ているとばかり……。
苦い顔つきで大石は妻の髪を撫で続けた。
「あなたがこんなことを考えておいでだったなんて……」
「こんなふうに迷っていたのは初めのうちだけだ」
大石は言下に強く否定した。
「どうした? そんなにショックだったのか?」
「ええ。もし……こんなお手紙を頂いていたらと思うと、恐ろしくて」
「恐ろしい? こうしてしっかり抱いているのに」
マーガレットの華奢な肩を大石があらためて抱き直すと、彼女は弱々しく彼のカーディガンの肩口に縋りついた。
「ああ、愛しているわあなた。あなたがいなければ生きていけないわ」
「わかっているよ、マーガレット……なんだ、泣いているのか。……すまん、つまらないものを見せてしまった。私が不注意だった」
大石の顔が苦渋に歪んだ。
……ただでさえ風邪で具合の悪いマーガレットを泣かせてしまうなんて、俺はなんて馬鹿なんだ。
「さ、ここは寒い。早くベッドに戻ろう。暖かくしてもう一度お休み……」
すまない気持ちでいっぱいになった大石は、泣いている彼女を苦もなく抱き上げると寝室に運んだ。
呼び鈴で女中を呼んで、せっせと枕を直したり布団カバーを引っ張ったりしながら、大石は自分の失策を取り繕うかのように、忙しくあれこれ指図する――奥様に熱いミルクをお持ちしろ、午後の分の水薬はちゃんと差し上げたのか、少し空気を入れ替えたほうがいいんじゃないか、部屋の温度は何度だ、あぁミルクに膜が張っているじゃないか――
口うるさくひと通り大騒ぎしてマーガレットに熱いミルクを飲ませてしまうと、大石はベッドサイドの椅子に腰を下ろした。


「私はきっとあなたに逢いに行ったわ、何としてでも。拒否されたら絶望して死んでいたかもしれない」
まだ涙の滲む青い瞳を見開いてマーガレットが大石に訴えた。
大石は黙ったまま彼女の手をしっかりと握り締めた。
とうとう言い出せなかった別れを大石はまた思い返す。
自分の恋情を無理やりねじ伏せることはできたとしても、一途な女王を思うと決意は鈍った。
激すると何をするかわからない、彼女の危なっかしさに気づいてからは尚更……。
……恋に脆い、純真だからこそ脆く弱いマーガレット。
「あなたを傷つけるような真似は私には出来ない」
……あなたの心を砕いてしまうような危険を冒せなかったのだ。
「お願いだから私をひとりになさらないで」
「しないよ、誓って」
大石は彼女の冷たくなった白い指先に唇をつけた。
……できるものか、こんなに愛しているのに。結婚するとき誓っただろう? 決してあなたを後悔させないと。
彼女の手を握ったまま、大石は少しの間ベッドに顔を伏せた。
固く誓った気持ちは今も変わらない。


しかし……どうしようもない時の流れというものがある。
大石は顔を上げると、悲しげに微笑んで話しかけた。
「でもな、普通男より女のほうが長生きだよ。しかも私はあなたより二十五も年上なんだからな。順当に行けば私のほうが先に墓に入る」
「いや、そんなこと!」
「いやと言われてもこればかりは寿命があることだしな」
「私もあとを追いますわ」
マーガレットは大真面目に断言する。
「おいおい、物騒なことを」
これだからな、万事この人は……大石は苦笑する。
「いや。私ひとりになるのはいや」
駄々っ子のようなマーガレットの口調に、大石は困ったように眉を上げて寂しげな笑顔を作った。
「わかったわかった。予定では同時に、ということにしておこう。それでいいだろ?」
「……約束よ」
「約束か……ふふ。せいぜい長生きさせてもらうさ」
大石は軽く笑って彼女のまぶたに優しくキスをした。
……しかしあと二十年したら私は七十五だが、あなたはまだやっと五十だ。年のことを考えると心底切なくなる。あなたに老醜を晒してまで長生きしたくないと思ったりもするのだがな。
大石はベッドのマーガレットの柔らかな髪に指を絡めながら、ぼんやりと物思いに耽るのだった。


――きのうの薔薇はただその名のみ、むなしきその名をわれらは持つ。
ホイジンガの詩句がまた大石の脳裏をよぎる。
この美しい人もいつかは色褪せるのだろうか?
いいや、いくつになってもあなたは美しいだろう。
きょうも明日も、そしてずっとその先も、俺にとって最も美しい薔薇は、あなたでしかない。
「……だってそうだろう?」
プリンセス・マーガレット……あなたがくれたピンクの薔薇。
俺の心の中に、かわらず匂やかに咲き続ける薔薇。
あなたと同じ名を持つ薔薇。


「え……?」
大石のつぶやきにマーガレットは目を上げた。
いつもと同じく、大石の深い瞳の色からは何の考えも読み取れなかった。
「仮王宮の温室のあの薔薇はどうしているだろうな」
「メアリに頼んで送ってもらいましょうか?」
「いやいい。先に一輪いただいている……一番きれいでわがままな薔薇をな……」
大石は静かに微笑むと妻の額にそっとくちづけた。



  ――きのうの薔薇はただその名のみ、むなしきその名をわれらは持つ。
  『中世の秋』 ヨハン・ホイジンガ/堀越孝一訳より――