◆恋の病


薄闇の中で大石に遠慮なく甘えられる寝室でのふたりきりの時間が彼女は好きだ。
大石の高い頬骨をそっとマーガレットは指でなぞる。
鋭く削げた頬、形のいい耳朶、真っ直ぐな髪。
愛してやまない夫の、頼もしく男らしい、整った立派な顔立ち。
……お若い頃もきっとご様子がよかったでしょうけど、私は今のあなたがとても好きよ。
そうマーガレットはやさしく囁く。
……うれしいことを言ってくれるね。せいぜいこれ以上老けないようにしよう。
目を閉じたまま、大石はクッと片頬だけで笑ってみせる。
こういうときの彼の余裕のある態度がマーガレットにはとても好ましく思える。
……あなたがとても好きよ……。
そう、もう一度つぶやいて彼女は彼の逞しい胸に身をゆだねる。


「初恋? おかしなことをお聞きになるのね」
マーガレットは大石の胸から顔を上げた。
大石の指が彼女の髪をすくいとる。
「……ん、まあな」
大石は曖昧につぶやくと、彼女の頬にかかったひと筋の髪をそっと払ってやった。
「うふふ、当ててみて」
マーガレットは悪戯っぽく笑ってみせた。
「え? というと私の知っている人物か?」
「ええ」
大石は内心穏やかではない。
そんな大石のわずかな表情の変化をマーガレットは見逃さなかった。
「将軍の誰かか? いつぐらいの話だ?」
さりげないふうを装ってはいるが、大石の目にちらりと火花が点じられている。
嫉妬の火花だ。
独占欲の強いやきもちやきの年上の夫……いつも余裕を失わない夫の感情の揺らぎを垣間見るのは、彼女にとってスリルのある瞬間だ。
大石を不機嫌にさせてしまうが、彼の激しい内面を確認できる瞬間でもある。
「十五になるまで身近な男性と言ったら、父とマロウェイ伯だけでしたわ」
殊勝げにマーガレットは目を伏せる。
「それからは?」
「公式行事でたくさんの人にお会いしました」
「そのなかの?」
夫の瞳にちらちら燃える火花を見てマーガレットは微笑む。
「いいえ。戦争は始まるし、父は倒れるし、恋なんてする余裕はとても」
嘘ではない。
あの当時は英国中が降ってわいたような国難に浮き足立っていた。
「即位してからはよけいに忙しくなって」
当時の心細さと気の張った若い自分を思い出して、マーガレットは少し切なくなる。
まだまだ未熟な若い自分がよりによって戦争という非常時に王位に就いてしまった。
旗色の悪い戦況や複雑な外交駆け引き……君臨すれども統治せず、とは言っても蚊帳の外にいるわけにはいかない。
英国本土の陥落も間近いと心配されたあのとき、極東から派遣された援英艦隊がナチスの魔手を押し返してくれた。
つい数年前には敵だった彼らが……盟友アメリカですら見捨てたこの英国を、旭日艦隊は身を挺して守ってくれたのだ……。
英国民と同様、女王の感激も大きかった。
だからこそ直々にスカパフローにまで勲章を持って赴いたのだ。
大石提督……英国の恩人と思いこそすれ、日本人の提督個人に何の興味を持たず勲章授与の式典に臨んだあの日。
大石に初めてあったあの日こそが運命の日だったと彼女は思う。
……あの日から私はあなたのことしか考えられなくなってしまったのよ。
彼女は夫の分厚い胸の谷間を指でそっとなぞる……今も滑らかで張りのある肌。
「さあ、初恋の相手は誰かしら」
からかうように問いかけると、大石は自分が持ち出した話題なのに不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ねえ、誰だとお思い?」
マーガレットは大石の不機嫌な様子を意に介さずに重ねて聞いた。
「見当もつかんな」
「ほんとに?」
「べつに誰かなんて聞こうとは思わないし、どうでもいいことだ」
「あらそう?」
どうでもいいと言いながら、こだわっているのは苦い表情からすぐわかる。
「いいわ、教えて差し上げる。それは大きなお船に乗って日本からいらした提督よ」
「なんだ、私か」
拍子抜けした大石を見て、マーガレットはおかしそうに笑う。
「そんな嘘だろ? 二十四になるまで恋をしたことがなかったのか?」
「疑り深い方ね、もう」
マーガレットは触れていた彼の胸を指先でとん、と突いて離した。
大石は不機嫌な表情のまま、無言で彼女の目を見ている。
「まだ疑われてるの?」
「……いや、そういうわけではないがな……昔のことだ」
「まあ、いやな方ね。じゃあ、どうしてそんなことをお聞きになったの?」
「あなたの男性の好みをちょっと知りたかっただけさ。つまり前もって危険な男はあなたに近づけないでおこうと、まあ予防策を講じたいわけだ」
唖然とするマーガレットの視線を外すと、それでも大真面目な顔で大石は言葉を続けた。
「先のことはほんとにわからんからな。私の可愛いマーガレットだって浮気をするかもしれない」
「まあ、ずいぶん信用がないのね」
マーガレットは呆れながらも思わず笑ってしまう。
「あなたはそうやって笑うがな……あなたは若くて魅力的すぎる……年の離れた夫が不安になっても仕方あるまい?」
まぎれもない大石の本音だった。
「ひどい心配性の大石さま。いいわ、私の好みの男性は……」
マーガレットは言葉を切って大石のがっしりした太い首に白い腕を絡めた。
そして彼女は優雅に顔を寄せると優しく大石にくちづけた。
「……やっぱりあなたでないといや」
大石の首を抱いたまま、マーガレットは甘く囁いた。
「あなたが好きよ。未来永劫、あなただけを愛しますわ」
……やきもちやきの大石さま。自分からは愛しているの一言も言ってくださらないくせに。私の気持ちばかり確かめようとなさるの? ずるい方……。でもいいわ、そんなあなたも好きだから。あなたの気が済むまで私は何度でも愛していると繰り返しますわ。
「あなただけよ、ずっとこれからも」
大石の目を愛情を込めて見つめる青い瞳。
その瞳を見つめ返して大石は満足そうに微笑んだ。
「……可愛いことを言う」
今度は大石からキス。
彼女の柔らかな唇の感触を楽しむように、彼は軽く唇を重ねた。


……あなたを妻にできたというのに、この恋は少しも冷めそうにない。
いまだに俺はあなたにくびったけだ。
俺は自分が詩人でなくてよかったと思っている。
あなたへの思いをうまく言葉に出来ないからこうして黙っていられる。
そうでなくても、好きだ愛していると言ってしまいたい衝動は常に感じている……へたに詩心でもあれば、愛だ恋だと一晩中囁くことになりかねん。
愛の言葉を考えるよりも、こうして唇を合わせるほうがいい。
……。
ああ、たとえ地獄に落ちてもあなたを他の男に渡したくない。
どんなことがあろうともあなたは俺だけのものだ。
あなたの肌、あなたの視線、あなたの声。
そしてあなたの貴重な心。
なにひとつ、許したくない。
……どうかしている。しかも年々重症になるような気がする、この恋の病は。


「不治の病、と日本では言うんだ」
唇を離し、彼女を抱きかかえて大石はつぶやく。
「なあ、マーガレット……」
大石はあらたまってマーガレットの瞳を正面から見つめた。
……え? もしかして。
マーガレットは息を詰めて大石を見つめ返す。
ついに彼は愛の言葉を口にするのだろうか?
彼女は期待を込めて彼の口元を見つめる。
戦争中の遠い昔(のような気がする)、あの日以来耳にしていない愛の言葉。
「ふふ、なんでもない……」
大石はひとり笑いをして目を閉じてしまった。
……危ないところだ。口にしてしまうところだった、愛していると。
偏屈なこだわりだと自分でも思うが、あれは誓いの言葉だったと大石は思っている。
軽々しく二度と口にしたくはない。
自分がこの世を去るとき、感謝とともに彼女に告げようと思っている言葉だ。
……おっしゃるわけがないわね。結婚のときにもおっしゃらなかった頑固者ですもの。
「けっこうよ、口になさらなくても。私には聞こえましたから」
つんとして、マーガレットは言った。
「ほう? 言わないことまで聞かなくてよろしい」
大石は少し乱暴に彼女を抱きしめた。
ひょっとすると照れ隠しだったのかもしれない。
とりあえず、大石の不安は治まったのである……今日のところは。