◆後世紺碧進級令
遅ればせながら「紺碧の艦隊」の原作を読んで困ったこと。
それはときおり後世世界に「えー!?」状態になってしまうことです。
「後世だからそれでOK!」なのは重々承知していても、そこは了見の狭いやかん。
以下、愚痴半分の文句たれであります。
◎九鬼鷹常海軍中将
彼は前原さんとは兵学校の同期だそうな。
前原さんの同期が照和17年に中将……。
これはマズい。
照和17年というと、大石さんもまだ少将で中将ではなかったはず。
九鬼さん、それでは大石さんより上の期だということになりますよ。
将官になると抜擢進級はなく先任順。
追い抜かしはありません。
※昇進の止まった将官は予備役に編入して淘汰する。
九鬼中将と大石少将が同時に存在したということは、九鬼さんのほうが先に少将になっていたということです。
以下のケースを除き、九鬼さんは大石さんより期が上であります。
1)九鬼さんは成績優秀で計画人事対象者だったので、先輩の大石さんに先んじて少将になっていた。
2)一方、大石さんは大病をして待命・休職期間があり昇進が1〜2年ストップしていた。
1)だけであれば九鬼さんは大石さんと同期かひとつ下の期
2)も加われば、もっと下の期、ということも有り得ます。
でも、非主流といえる陸戦畑に計画人事対象者……?
あの大石さんが病弱……?
どちらも不自然な想定ですが、もしそうだったとしても期はせいぜい二つか三つしか逆転しません。
大石さんは兵学校の恩師どころか実は前原さんたちと同年輩……なんてことになってしまうんですね、九鬼さんが中将だと。
だいたい同期生が中将になれるような年代なら、前原さん自身が相当な年のはず。
まず50代ですね。
なぜ九鬼さんを中将にしなくてはならなかったのでしょう?
「海兵師団」という旧海軍にはない組織が出てきますが、“師団”長だから中将という陸軍的な発想でしょうか?
この「海兵師団」というのはようするに陸戦隊(警備隊・防空隊・特設根拠地隊)であります。
前世では、根拠地司令官の階級は少将、陸戦隊司令で大佐か中佐でした。
『沖縄県民斯く戦えり、県民に対し後世特別の御高配を賜らん事を』という自決前の電文で知られる沖縄方面根拠地隊(約1万人)の太田実司令官も少将でした(死後中将に昇進)
九鬼海兵師団の兵力は5千人でしかありません。
なにより、司令長官・鎮守府長官クラスの階級である中将を陸戦隊トップに据えてしまうと、作戦時の指揮系統に支障が出ませんか?
九鬼さんの階級は少将で十分だと思います。
もしかして、共同作戦のおり外国指揮官の下級にならないように配慮したとされる、例の「特別進級」ではないか?……とも考えたのですが、照和17年のこの時期、共同作戦も何も日本はまだ英米と戦ってます。
「特別進級」の出番もありません。
九鬼さんは掛け値なしの本物の中将のようです。
つまり、50代……。
◎この後世戦では、その前世記憶を買われて、技術士官が機長や艦長を務めるケースもままあるのだった。 〜『勇猛帝国海軍海兵師団』より
……これは無理無体。
まず、技術科士官には指揮権はありません。
※例外として、土木作業を任務とした設営隊の指揮は執ることができる。
別に差別待遇ではなくて、技術科士官は兵科将校のような指揮官としての経験を積んでいないのです。
技術科士官は採用されると直ちに技術中尉に任ぜられ、海軍砲術学校で短期間の一般軍事教育の講習を受け、そのあとすぐ現場である海軍工廠へ実習に行かされました。
その後連合艦隊付になり軍艦・潜水艦・駆逐艦などの乗艦見学を経て、あとはずっと地上勤務となります。
軍隊指揮を経験するヒマも必要も無いまま、海軍工廠や工作庁で艦や兵器を研究・製造するのが技術科士官。
技術科士官に艦長になれというのは、軍医に操艦しろというのと同じくらい無茶な話です。
◎(九○一潜艦長山崎正登大佐は)兵学校の出身ではないが、工科学校から海軍大学校に入学、優秀な成績をおさめて卒業した学卒士官である。 〜『勇猛帝国海軍海兵師団』より
海軍大学校とは
『海軍少佐又は大尉に……枢要職員又は高級指揮官の素養に必要なる高等の兵学其の他の学術を修習せしむる』ところであります。
修学内容も戦術・戦略研究が主になります。
つまり中堅将校を対象にした未来の参謀長や司令長官の養成所。
軍隊経験も無い新卒者に、海軍に入って十数年の古参大尉・少佐たちと同じ土俵に立てといっても無理ではないでしょうか。
◎と、この水雷学校高等科出身の英才(魚雷長寺島丑三郎大尉)もうなずいた。 〜『潜航八千キロ富嶽出撃』より
まず「魚雷長」という名称に思いっきり引っかかりますが、あとがきに曰く「作者好みのマニエリスム感覚」とありますので、読者としては受け入れなくてはなりますまい……。
しかしわざわざ魚雷長(水雷長)が「水雷学校高等科出身」と断らなくても「高水」を出ていない水雷長のほうが珍しいと思います。
◎彼(機関長土方大尉)は工機学校高等科首席の秀才なのだ。 〜『潜航八千キロ富嶽出撃』より
『潜航八千キロ富嶽出撃』には富岳号幹部の紹介がされているのですが、どうも紹介された履歴にいちいち引っかかります。
潜水艦の機関長は、工機学校高等科を卒業し、さらに潜水学校機関学生課程も修めているはず。
この課程を修業して初めて士官名簿に「潜機」という文字がつきます。
新鋭大型潜水艦の機関長に「潜機」マークがないのは解せません。
それも少佐ではなく大尉とは。
イ106潜富嶽号は艦長が入江大佐、先任が品川中佐と定員表の規定より一階級上になっているのに、水雷長と機関長にはわざわざ下位の大尉を配置する理由がわかりません。
◎川崎の場合は、予備役から志願しての現場復帰である。
「だから毎年一つずつ若返って五十だよ」
「ああ、すると古稀でありますか」 〜『秘計紅玉艦隊虎狩作戦』より
ことあるごとに老将とかご老体とか言われている川崎長官ですが、照和22年8月末に70歳の誕生日を迎えた、とありますので、川崎長官は1877年生まれ。
たしかにご老体ですね。
さて、海軍中将の現役定限年齢は62歳。
現役の将官も62歳で自動的に予備役中将となります。
さらに現役定限年齢から満5年を経ると次の年度からは退役となります。
つまり川崎中将は照和20年4月1日に退役中将となり以後軍務につけません……前世海軍ならば。
照和15年には予備役入りしているはずの川崎中将ですが、定年ぎりぎりまで居座ることはまず不可能です。
後任者の中から大将昇進者が出る頃には、予備役に編入されて現役を引退しなくてはなりません。
1877年生まれといえば前世なら海兵25期あたりでしょうか。
海兵25期というと山梨勝之進大将や山本五十六長官の仲人である四竈孝輔(しかま・こうすけ)中将の期です。
1934年(昭和9年)には27期の末次信正や28期の永野修身が大将に昇進しているので、彼らより先任の中将はすでに現役を引退しているはずです。
(永野修身は長野修身軍令部総長として紺碧にも登場していますね)
後世の川崎中将も遅くとも照和9年には予備役入りしていたと考えていいでしょう。
――十年以上前に引退していたであろう軍人を司令長官に起用するとは……よほど人材が無いのか、後世海軍。
年のことをいえば、高杉長官に「私は酉年」という発言がありました。 〜『高杉艦隊取り舵一杯ッ』
この酉年が1885年生まれの酉だとすると照和16年で56歳。
1897年生まれの酉だとすると44歳。
昭和海軍で44歳の中将というのは若すぎます。
56歳ではやや老けすぎかとも思いましたが、前世でのハワイ作戦の南雲長官は54歳ですので、どちらかといえばまだこのほうが妥当でしょうか……?
とすると終戦時には65歳ですね……。
なにも川崎長官だけが「ご老体」ではないようです。
◎大竹馬太郎飛行特務大尉がハッチからのぼってきた。 〜『潜航八千キロ富嶽出撃』より
大竹大尉は土浦の予科練上がりだ。教官までしたことのあるベテランだから、まずまちがいない。 〜『潜航八千キロ富嶽出撃』より
「B29撃墜王」の異名をとった遠藤幸男大尉は乙種予科練第1期生、彼は昭和19年に29歳の大尉となりました。
予科練出身者の最高位はこの遠藤大尉です。
昭和17年当時はその遠藤大尉もまだ飛行特務中尉。
それよりマズいのは予科練が土浦を使い出したのは昭和14年になってからだということ。
※昭和14年3月霞ヶ浦空に移転、翌15年11月土浦海軍航空隊開設。
「土浦の予科練上がり」は終戦時でも上飛曹〜上飛しかおらず、教官(士官のみ、准士官および下士官は「教員」である)になれるはずがありません。
◎見木少佐は、一般大学工学部卒業の電子技術士官である。なお、若くして少佐の階級は、いかに技術者を尊重かつ優遇しているか、軍の方針の表れでもある……。 「勇猛帝国海軍海兵師団」より
軍艦研究の権威、福井静夫氏は大正2年生まれ、昭和13年に東大工学部船舶工学科卒、海軍造船中尉となっています。
つまり25歳で中尉任官、これはこの時期18歳で兵学校に入学した兵科士官とまったく同じペース。
少佐になったのは昭和19年10月、31歳。
これは兵科士官よりも二年か三年早い出世です。
昇進スピードに限っては、前世海軍も技術科士官を優遇していたといえます。
「若くして少佐」というかぎりは後世ではさらに昇進が早いのでしょうが、いったい何歳なんでしょう? 見木さんは。
戦前の学制では大学を卒業するのは早くて23歳。
中尉 一年六月
大尉 四年
という実役停年がある以上、29歳より若くはできません。
――そりゃもう、停年も退役も定員令もどうなってるのかわかんないのが後世、なんですが(^^;
※参考図書
『海軍オフィサー軍制物語』雨宮孝之著 光人社
『海軍技術戦記』内藤初穂著 図書出版社
『日本陸海軍総合事典』秦郁彦編 東京大学出版会