◆応急訓練 (磯貝君がご案内いたします)


……はあー……。
長官はやっぱり素敵ですねぇ。
もう何年も長官の下で仕事をしているんですが、いつも思うんですねぇ……。
かっこいいなあ、大石長官。
あなたのおかげで私も長官の朝のコーヒーをいただけましたよ。
とってもおいしかったでしょう?
コーヒーをおいしく淹れるのが長官のご趣味だそうで。
……じつを言うと私はコーヒーの味がよくわからないんです。
みんな苦いだけという気が……。
香りは大好きなんですけどね。
ミルクとか砂糖とか、できたら生クリームでもたっぷり入れたら、もっとおいしいんじゃないかと。
おっと、内緒にしておいて下さいね。
長官に知れたら二度とコーヒーに呼んでくださらないです。


さて、課業開始まで一時間ほどあります。
ご覧になりたい場所があればおっしゃってください。
ご案内いたします。
……高いところ、ですか?
じゃ防空指揮所にしましょうか。
あそこならエレベーターで上がれますし。
エレベーターは作戦室、艦橋、指揮所と三ヶ所に停止するようになっています。
非常時以外に使用するのは長官と幕僚と艦長、砲術長ぐらいですか。
普段は士官でもラッタルを駆け上がっていきますよ。
……他の高所は女性にはお勧めできません。
手すりなしの梯子みたいなところを上り下りしなくちゃいけないですから。


さ、着きました。
案外風が強いですから、気をつけてくださいね。
ほらっ!
大丈夫ですか?
……ここでだいたい十一階建のビルに相当する高さです。
この上ですか?
すぐ上が測距儀室、一番上が方位盤のある射撃指揮所。
測距儀というのは距離計のことです。
今はほとんど電探を使っていますけどね。
……上るんですか?
仕方ないなあ。
じゃあ測距儀室の前までですよ、それ以上はダメ。
いーえ、危ないからダメ。


……えっ、目が回るですって?
だからそっちには行かないでって言ったんですよ……しようがないなあ。
そっちはそういう危なっかしい足場と手すりしかないんだから。
じっとしててください、今そっちに行きますから。
さあ、私につかまって、いいから!
……もう。
私が冷や汗をかきましたよ。
高所見学はこれでおしまい。
さ、戻りましょう。


もう掃除も終わったでしょうから、参謀室にでも行きましょうか。
私たち参謀の仕事場ですから気兼ねは要りませんよ。
……どうぞ、お好きな椅子にお掛けください。
あ、ちょっと失礼。
……なんだ?
……応急訓練? いつ? ……わかった。
失礼しました。
いや、午後に応急訓練が入りました、という連絡です。
ええ、いつも急に言ってくるんですよ。
というか教えてもらえるだけありがたいというべきでしょうね。
あ、応急訓練といえばこんな話がありますよ。
「阿武隈」という巡洋艦をご存知ですか?
少し前の話になりますが、この「阿武隈」が第一艦隊第一水雷戦隊の旗艦だったときのことです。
旗艦には司令部が置かれて、司令官、私のような参謀、その他司令部つきの要員が乗り込んできます。
で、往々にして乗組員と司令部、双方の意思疎通は十分でなかったりします。
早い話が、仲が悪いと。
この「阿武隈」はとくにそうだったようで、艦独自の応急訓練があっても司令部の人間は非協力的だったそうです。
普段から司令部のそういう態度を「阿武隈」幹部たちは苦々しく思っていました。
とくに艦内での訓練や作業を取り仕切る副長は、腹に据えかねる思いでありました。
この副長こそが若き日の大石長官、当時の大石中佐だったのです。
で、大石副長は司令部の連中の
「訓練? こっちは忙しいんだ。勝手にやってろ」
というあからさまな態度に腹を立てられましてね、なんと訓練の火災現場を参謀室に想定されたのです。
さあ、兵に発煙筒をがんがん焚かせて、参謀室にいきなり投げ込ませたのだからたまらない。
参謀たちは仰天するわ、涙が出るわ咳き込むわ、そこへ鎮火隊がどっと押し寄せて訓練を始める……。
はは、応急訓練といっても防火教練ですからね、実態は。
訓練終了後、えらい目に遭わされた参謀たちがカンカンになって、指揮をした甲板士官のところへ苦情を言いに来たそうです。
甲板士官は副長の命令に従っただけなんですが、さすがに参謀たちも大石副長に直接ぶつかる勇気はなかったらしい。
怒った参謀たちを大石副長はニヤニヤして見ていらしたそうですよ。
このことがあってから司令部も懲りたのか、少しは協力するようになったということです。
とにかくこの事件で艦の乗組員たちが大いに溜飲を下げた……という大石長官の若き日の武勇伝ですよ。
うふふ、乱暴ですねぇ。
そういう前歴を持った長官ですからね、幕僚が乗組員の一段上に構えるようなことがないように、普段からとても気を配られています。
だから、今日の応急訓練にも張り切って参加しないと長官のご機嫌を損ねることになります。
今でも参謀室に発煙筒を投げ込むぐらいのことは平気でなさりそうな方ですからね、ははは……。


      *      *      *


大石さんのこととして書きましたが、じつはこれ、「大和」艦長として沖縄特攻で戦死した有賀幸作大佐が巡洋艦「川内」副長だったときの逸話です。