◆ライラックの小道


彼女の細い白い指をまとめてぐっと掴んだ大きな手のひらに、マーガレットは顔を上げることができなかった。
トクン、トクン……。
心臓だけが軽やかなリズムを刻む。
頭の中が真っ白になって何も考えられなかった。
ただ、ただ、幸せな潮流の中で彼女は頬を染めて立ち尽くしていた。


さわさわとライラックの茂みが揺れる。
五月になってようやく春の息吹を感じさせるようになった、インバネスの風。
「陛下……」
低い声にマーガレットが顔を上げると、声の主が微笑んでいた。
彼女の手を引き寄せると、目を閉じてその白い指先にくちづける。
濃い眉がかすかに寄せられている、その表情にマーガレットの心はときめく。
少し傾けられた軍帽の下の、浅黒い精悍な大石の顔。
ライラックの新緑の壁に囲まれた、ふたりきりの空間に風だけがそよいでいく。
大石が目を開けた。
美しい女王に彼はやさしく微笑みかける。
自信に満ちた強い目が、彼女を暖かくみつめている。
……ああなんて慕わしい方……!
ライラックを揺らすそよ風に押されるように、マーガレットは大石の腕の中に身を投げかけた。


五月になると、ここインバネスでは花という花がいっせいに咲き始める。
この仮王宮の中庭にも春が華やかに訪れていた。
霜に震えていた木々に緑の葉が戻り、株元には小さな花がこぼれそうに咲いている。
イングリッシュガーデンの宿根草たちも息を吹き返していた。
来月にはまた初夏の訪れを告げる花が賑やかに咲くことだろう。
ライラックの咲き誇る中庭の一隅で、大石はその腕に女王を抱き、幸福感に酔いしれていた。
甘やかな春の風がマーガレットのうなじを撫で、大石の頬を過ぎていく。
腕に抱きしめた彼女を、大石はそっと上向かせる。
彼の腕の中で、マーガレットの青い瞳がふわりと開いて、大石を無心に見上げた……。
大石の心をとろかす愛くるしい瞳が、大きく見開かれて、魅惑の蜜を投げかけていた。


会議の後、侍従が席を立った大石にすっと近づき、耳打ちした。
「暫時あちらでお待ちくださいますように。陛下がまもなくお見えになります」
侍従は会議室の先の奥まった一角を指し示した。
侍従の言うままに中庭の見える回廊で大石はたたずむ。
女王を待ちながら、午後の光にきらめく緑の庭園を大石はまぶしげにみつめる。
……女王陛下……。
ほんの少し、首をかしげて彼を見上げる女王の澄んだ瞳を彼は思う。
うっとりするような、彼だけに向けられる甘い微笑。
凛とした気品に満ちた女王陛下が、大石の前ではまるで少女のように無邪気になる。
恋の想いを双眸に宿して真っ直ぐにひたむきに大石をみつめてくる。
でもあの青い瞳は腕に抱きしめてしまうと、彼の強い目の光に耐えられないかのように、不安げに揺れるとすっと閉じてしまうのだ……。


大石は会議のために仮王宮まで来たのではない。
大石にとっては英国参謀本部との会議など、仮王宮に参入する口実にすぎない。
ただ、女王に逢いたかった。
互いの気持ちを確認してから、はや数ヶ月。
ふたりの恋の思いは募る一方……。
今日の会議でも大石の心は議題から幾度もはずれ、女王のことをぼんやり考えていたものだ。
難しそうな顔をして会議に聞き入るふりをしながら、じつは彼女の微笑や優雅で愛らしい仕草を思い描いてばかりいたのだ。
もし原がそばにいたら、大石のこの放心状態に気づいたかもしれない。
しかし後ろの席で真面目にメモをとる副官は、そんなことにはまるで気がつかない。
英軍の将官たち同様、端正な顔で沈思黙考する大石元帥が、じつは恋人のことをずっと考えているなどとは思いもしないのだった。


回廊に不意に現れた麗しい女王の姿……!
大石は思わず息を飲む。
春のまばゆい金色の日差しを背に、臈たけた美女が慎ましやかに回廊を滑るように歩んでくる。
すらりと上背のある姿に、春らしい軽やかな装いがとてもよく映えていた。
挨拶も儀礼もすべて抜かして、女王は大石に美しい声で話しかけた。
「提督、中庭に参りませんこと? この陽気でライラックがいっせいに咲き出しましたのよ」
きらきらとした女王の笑顔がまぶしくて、大石は一瞬気後れした。
女王は大石に微笑みかけると、白い手を優雅に差し伸べる。
「さ、ご案内いたしますわ」
その落ち着いた美しいアルトの声にも、その典雅な身のこなしにも、申し分ない気品と威厳が具わっていた。
一礼して恭しくその手を取る大石と、女王の視線がしっかりと絡みあった。
とたんに女王の表情が甘やかに変化する。
不意に恋に潤んだ瞳で甘くみつめられて、大石は内心度を失った。
……ああ、あなたは私をいつも驚かせる。そんなお顔をされては、陛下とお呼びしにくいではありませんか。まだ人の目もあるというのに。
緊張した大石の様子をよそに、女王は優雅な足取りで大石を新緑の中庭へといざなうのだった。


「大石さま、こちらよ」
女王が生き生きとした瞳で大石にささやきかける。
中庭に出ると、女王は大石の手を取り軽やかにライラックの垣根に彼を導いた。
芝生の上を女王に手を引かれて早足になりながら、大石は面映くなる。
……女王陛下とはいえ、うら若い女性に手を引っ張られている……この俺が。
ライラックの垣根の境目に、人一人通れるぐらいの隙間が目立たないようにつくられており、そこから垣根の裏側の小道に入れるらしい。
「私が見つけましたの」
大石を見上げて誇らしげに女王はささやく。
「これは……陛下はお小さいときかくれんぼがお上手だったようだ」
大石は垣根の向こうを覗き込んだ。
ライラックと木々に囲まれた緑の空間がぽっかりとできている。
「ここなら誰にも見つかりませんわ」
大石の手をとり、女王はライラックの壁の中に彼を誘う。
誰にも見つからないようなところで、ふたりきりに?
大胆な、と大石は困ったように微笑みながらも、緑の空間に足を踏み入れた。
うす緑の葉陰と木漏れ日だけの小さな丸い空間……本当にふたりきりの小世界だ。
上気したばら色の頬の女王が、すぐそばで彼を見上げている。
急に高鳴った心臓の鼓動を押し隠すように、大石は微笑を浮かべた。
「いいえ、ここはだめですよ」
「どうして?」
「先住者がいる。ほら、向こうの枝に、こちらを見ているでしょう?」
女王の肩を抱くと、大石はそっと葉の茂った枝を指差した。
オレンジ色の胸をした小鳥がこちらをじっと窺っていた。
「コマドリ?」
「巣を作っているんですね、親鳥が二羽、ほら」
もう一羽らしい影が茂みの中に見え隠れしている。
「警戒させてはかわいそうです、もう少し向こうへ参りましょう」
女王の肩から手を離すと、大石は代わりに彼女の指先をしっかりと握ってそう促した。
「おやさしいのね」
「あの鳥たちもふたりきりになりたいでしょうからね、私たちのように」
「まあ……」


この小道は庭師が使う通り道らしい。
大石は女王の細い指先を握りしめたまま、人ひとりが通れるぐらいの細い小道を先になって進んだ。
ライラックは重たげに枝一杯に花をつけていた。
その枝の下を通る大石と女王の肩にさわさわと花房が触れる。
「どこに出るんですか? この道は」
大石が優しく女王を振り返る。
「キューピッドの横手に出ますわ」
美しく澄んだ女王の声がささやき返した。
むせ返るような甘いライラックの香りが、ふたりを取り巻いていた。
大石は花の香りに酔いそうに思った。
花影の小道を、美しい女王のたおやかな手を取ってさ迷う自分は、まるで夢の中にいるようだ……。


ライラックの小道の出口が見えてきた。
出口の向こうに白い小さなキューピッド像が見える。
ここは仮王宮の中庭の最深部で、礼拝堂の石造りの壁で行き止まりになる。
大石は立ち止まると、マーガレットの指を握り締めたまま、彼女を熱くみつめた。
彼の視線に耐えられないように、マーガレットは目を伏せた。
うっすらと染まった頬の可憐さに、大石の胸が高鳴る。
「陛下……」
そう呼びかけると、マーガレットは素直に目を上げた。
無邪気な青い瞳が、彼にみつめられて、恋の想いにふるえている。
マーガレットが愛しくてたまらず、大石は彼女の白い指先に想いを込めてくちづけた。
……あなたが限りなく愛しい……陛下……マーガレット……。


白い手袋の手がマーガレットのうなじを支えている。
マーガレットの腕がそっと大石の背を抱いた。
コマドリの澄んだ歌声が静かになったライラックの茂みから聞こえてきた。
ピリリリ……ピルルリ……。
新緑が風にそよぎ、花房が重たげに揺れる。
木漏れ日が唇を重ねたふたりの足元に金のコインを投げかける。
ライラックの緑の壁に囲まれた、ふたりきりの時間が夢のように過ぎていった……。