◆マーガレット


十二月にはめずらしい、いい天気だった。
いつもなら低い暗鬱な雲が垂れ込め、断続的に雪さえ吹きつけてくるのに、今日のインバネスは風もなく澄んだ青空にベールのような薄雲がゆっくりと動いていた。
「日本ではこんな日のことを小春日和というんですよ」
大石は青い空を見上げてまぶしそうに目を細めた。
仮王宮の中庭の日溜まりを大石と女王はゆっくりと歩いていた。
暖かそうな日差しに女王が大石を中庭の散歩に誘ったのだった。
「すぐ春が来そうな錯覚を起こしそうですわ。春はまだ何ヶ月も先のことなのに」
大石の外套の腕に軽く女王が手を置く。
自分を見上げる女王の愛らしい微笑みに、大石は少しぎこちなく微笑みを返す。
彼は募る恋心を押さえるのに懸命になっていた。
彼の努力を知ってか知らずか、こんなに間近で女王は無邪気な笑顔を大石に惜しみなく向けてくる。
生き生きとした瞳が大石を信じきったように見上げる。
女王のあどけなさを残す唇は思わず触れたくなるような可愛い形をしていた。
彼に寄り添う女王からかすかにバラの香水が香り、平静を装う大石の心をよけいにかき乱した。


太陽は白く南の空の中ほどにあった。
日本の太陽よりうんと高度が低く、もう昼近いというのに真横からさす光線が目に入って眩しい。
弱々しい、しかしほんのりと暖かい日の光を浴びてふたりはゆっくりと庭園を歩いていた。
芝生は黄色く、冬芽をつけた木々の梢が澄んだ青空を突いて輝いていた。
目が合うたびに女王は甘く大石に微笑みかける。
この女王の愛らしい微笑を今自分ひとりが独占していることに大石は胸が高鳴る。
女王陛下の微笑み……光栄の至りだ。
そう思って畏まろうとしても、女王の微笑みは親密にすぎた。
大石が平静でいられなくなるほど、その青い瞳はまともに彼の目に訴えかける。
できることなら大石は女王に問いただしたかった。
……なぜ、そんなに幸せそうに微笑まれるのです? どうしてそんなひたむきな目で私をご覧になるのです?
その答えを聞いてしまえば、二人の関係はのっぴきならなくなることを大石は悟っていた。
それでも女王に尋ねてみたい誘惑を大石は感じていた。
……俺はどうかしている。親子ほども年の離れた女性にみっともない。


「陛下、私の年齢をご存知ですか?」
大石は低く女王に問いかけた。
彼の精悍な浅黒い顔には自嘲するような苦い表情があった。
「……五十なのですよ、もう年寄りといっていい」
女王は大石の顔をじっと見つめた。
若くはない。
しかし年寄りではけっしてない。
「提督は四十九歳ですわ」
女王は大石の言葉を訂正し、彼の生年月日をすらすらと口にした。
「これは驚いた。よくご存知ですね」
大石の驚きに女王は微笑んだ。
「年のことなどわざわざおっしゃるからです。……知ってますわ」
大石の年齢は実につかみにくい。
快活な笑顔や広い肩の逞しい体躯から受ける若々しい印象。
落ち着いた思慮深い言動と深い目尻の皺が示唆する年輪。
相反する印象が違和感なく溶け合うつかみどころのなさが大石の魅力の一部でもある。
……四十すぎぐらいに見えるけれど、もう少し上かもしれない。
初めて会ったその日、女王は勲章申請の書類をもう一度侍従に持ってこさせて彼の略歴を読み、いささか衝撃を受けていた。
(見た目よりも結構なお年なのね……)
二十五歳も年上なのだ。
しかし、だからといって大石の年が女王の恋心を冷ます要因にはならなかった。
(ぜんぜん平気よ。あんなに素敵な方なのだもの、年なんか関係ないわ)


大石は大人だった。
余裕のある慇懃な態度を崩さない大石に女王はあせりすら感じていた。
(大石提督のお気持ちが知りたい。女王の私に敬意を払ってくださってるだけなのかしら?)
温室のバラ園で見つめあったときに、大石の瞳にあった想いは恋ではなかったのだろうか?
自分の勘違いだったのだろうか?
女王は自信がなくなってきていた。
「失礼ですが、陛下はおいくつです?」
大石がさり気なく訊いてきた。
「二十四です。春には二十五になります」
(一応は私も大人のつもりです。提督からすればまだまだ子供なのでしょうけれど)
女王は大石の目をしっかりと見返して答えた。
「お若いですね。私の半分だ」
「年は関係ありません」
つんとして女王は怒ったように答えた。
(年が半分だからなんですの! 年のことなどどうでもいいではありませんか。きちんと私をご覧になって!)
「そんな顔をなさるところがお若いのですよ」
大石が含み笑いをして女王を揶揄した。
(なんて顔をなさるんだろうなぁ、この方は。赤ん坊みたいな柔そうな唇を尖らせて。まったくかわいい顔をなさる)
公式の場以外で見せる女王の素顔が無邪気できかん気ですこぶる愛らしいことを、大石はこの数日で知るようになった。
それは威厳に満ちた美しい女王への敬慕の気持ちをけっして損なうものではなかった。
それどころか女王としての彼女にではなく、マーガレットという愛らしい女性への恋に彼はいっそう囚われていく。
ただ、今にも駆け出しそうな大石の恋心を、彼の分別という冷静な手がしっかりと引き止めていた。


「大石提督はお若く見えますわ、十分に」
大石に笑われて女王は少し気を悪くしたように上目遣いで彼を見た。
その拗ねたような表情も大石を楽しませることになった。
(まあよく、くるくると表情が変わるな。見ていて飽きない……しかもかわいい)
「そうですか?」
わざと大石は素っ気無く答える。
案の定、女王は困ったような表情になる。
(ふふ、かわいいな)
くすっと笑う大石に女王はまた戸惑わされる。
どうやら大石にからかわれているらしい。
少し悔しいが、大石の笑顔に女王は心がときめく。
大石が笑顔になると彼の片頬に深いえくぼが表れる。
目尻の皺が柔和な目の表情を作る。
整った顔立ちの心の中が読めない提督に女王は夢中だった。
女王はうっとりと大石を見上げる。


大石を見上げる彼女の瞳の意味は十分すぎるほど彼には理解できた。
もはや彼の取り違いでも誤解でもなく、女王が大石に恋をしているのはわかる。
しかし彼は女王にとっての恋と、自分にとっての恋が同じ意味あいであるとは考えられなかった。
……恋といっても女王は若く、そのご身分ゆえにあまりにも世間知らずだ。恋に恋する……といった程度のお気持ちかもしれん。
彼にも身に憶えのあることだ。
若い恋というものは純粋な反面、半分以上が自分の思い込みでできていることが多い。
実像に触れぬほうが美しい思い出になるものかもしれない。
……遠い日本から来た俺がものめずらしいのかもな。救国の英雄という色眼鏡もあるだろう。俺は五十に手の届くただの軍人にすぎんのに。
距離を保ったまま、いつの間にか間遠くなるのがお互いのために一番いいだろうと大石は思う。
女王と極東の軍人、ほっておけば自然と縁は消えるはずである。
住む世界が違うふたりが偶然出会っただけで、いずれもとの世界へ帰っていくのだから。
……しかし俺は初めて会ったとき、たしかに運命を感じた。この美しい女性とどうにかなりそうな予感を感じた。もしかしたら女王も同じ思いを抱かれたのではないだろうか? だとしたら……。
大石は立ち止まり、自分を見上げる女王の瞳を見つめ返す。
彼は自分の思いを注意深く隠したまま、女王の瞳の奥を鋭く見つめる。
戸惑ったように、女王はまばたきをする。
うっすらと血の色が彼女の頬を染め、大石の強い視線に耐え切れず女王は目を逸らした。
……俺は運命を信じる。運命の差し出すものをどう扱うかによって未来が決まると信じる。拒否するもよし。進んで飛び込むのもよし。未来を切り開くのはあくまで自分の信念と力業だ。
大石は女王に向き直った。
女王も再び顔を上げて大石を見る。
女王はもう目を逸らさなかった。
潤んだ大きな青い瞳が大石に恋を訴える。
しかし。
冷静な分別が大石の恋の情熱に冷水を浴びせる。
……女王に恋してどうするのだ。忍ぶ恋か?
身勝手すぎると彼の理性が彼の恋を指弾する。
……無邪気な若い女王をそんな辛い恋に引きずり込むのか。
(いけない。俺がしっかりしないと)
大石は空を仰いだ。


「やはり外は冷える。そろそろ戻りましょうか」
大石は穏やかな笑顔を浮かべて静かに言った。
女王は悲しげに視線を落とし、小さくため息をついた。
「……提督がそうおっしゃるなら」
女王は寂しげな笑顔を彼に向ける。
切ないまでの彼への慕情が泣き出しそうな青い瞳に込められていた。
(陛下。あなたのお気持ちに気づかぬ振りをすることをお許しください)
大石は心の中で女王に詫びた。
ふたりは冬枯れの中庭の小道を並んで引き返す。
(……いずれきちんと決着はつけます。進むにしても退くにしても)
大石は彼の腕に置かれた女王の手に優しく手を添えた。
女王がはっとして目を上げると、大石の誠意のこもった暖かいまなざしと合った。
(大石さま……)
女王はいろんな思いが胸にこみ上げて、しばし無言で大石の肩に頭を預けた。
仮王宮のガラス窓が冬の日差しを受けてきらきらと輝いていた。
寄り添って歩くふたりの影が日溜まりに長く伸びていた。