◆燃料

はるばる大西洋まで遠征した旭日艦隊。
その行程はバルチック艦隊の逆コースをたどって極東から北海へ、海路一万五千余浬。
しかも北海到着後は援英艦隊としてドイツ軍と戦いつつ、戦火の合間には船団護衛の任務につき、何度もインド洋やバミューダ沖を往復していた模様。
旭日年表を見ていて思ったことなんですが、案外とこの地道な船団護衛任務についていた期間が長そうなんですね。
……燃料はどうしていたんだろう?
補給は誰がどうやって?
旭日艦隊のような大艦隊が航海しますと、莫大な重油を消費します。
地球の裏側の日本から補給するのは大変ですから、同盟国イギリスから重油をもらっていたのでしょうか?
アフリカ沿岸はドイツが押さえているとなると、いったいどこから重油を供給していたのか……?

そもそも軍艦を動かすには重油はどのくらい必要でしょうか。
前世の例を挙げますが、戦艦《大和》の重油搭載量は6400トンで、16ノットでなら航続距離は7200カイリ。
比島沖海戦では、《大和》は一週間給油せずに戦いましたが、ブルネイに戻ったときは重油の残量がなくなりかけていたそうな。
戦闘行動中は重油をすぐに消費してしまいます。
長期行動する艦隊には給油艦・油槽船はなくてはならないものでした。
真珠湾攻撃に向かう機動部隊には民間から徴用された高速タンカーが7隻随伴していました。
タンカーに満載された重油は合計84000トン。
機動部隊の20隻の艦艇は一日あたり約3000トンの重油を消費したので、ハワイまでの往復28日分の油つぼとして7隻ものタンカーが必要だったのです。

前世の高速大型給油艦《風早(かざはや)》は重油10000トンを運べました。
大雑把な計算ですが、旭日艦隊が一ヶ月航海するには《風早》級の大型給油艦を17隻揃えないといけません。
旭日艦隊には補給専門の艦隊が付随しているという話ですが、補給線が長大なことを考えると随伴給油艦だけでなく、相当な規模の輸送船団が必要になるはずです。
たぶん旭日艦隊は、戦闘部隊よりも裏方の補給部隊のほうが大所帯になっているかと……。

では、旭日艦隊のような大艦隊を五年間運用するには、いったいどれだけ費用がかかったか?
また前世から例を挙げますと、昭和15年、当時の連合艦隊旗艦であった戦艦《長門(ながと)》の燃費は一日で6万5千円でした。
大卒銀行員の初任給が70円であった時代です。
現在の金額にしておおよそ1億6千万円なり。
(これは高速で航行した場合の数字ですから、経済的な速度で航行するともう少しお値段は控えめになります)
《長門》一隻で一日1億6千万円、一ヶ月で48億円、五年間では2920億円。
旭日艦隊の主な艦艇40隻の総トン数は《長門》の十倍強ですから費用もたぶん十倍。
旭日艦隊の重油代に、五年間で約3兆円の国家予算が使われていたはずです。
だいたい軍艦というものはとんでもない金食い虫でありまして、お金がかかるのは燃費だけではありません。
海戦シーンでボンボン発射されている魚雷、一本800万円したそうです。
後世ではシンプルな魚雷だけでなく、より高価な誘導弾も使っていましたね。
ちなみに昭和40年代のMK37魚雷で一発1700万円なり。
これに人件費や補給部隊の運用費、新艦艇の建造費も計算に入れると……後世日本、たぶん破産寸前。

人員・物資の補給がなければ、戦いは続行できません。
ともに資源のなかった島国、イギリスと日本。
北海油田がまだ開発されていなかった当時のイギリスは、日本と同じく石油輸入国でした。
ですがイギリスは戦争中、日本のように石油不足で窮することはありませんでした。
日本の備蓄燃料はたった一年半分でしたが、イギリスは四年分溜め込んでいたといいます。
それにイギリスは戦前から石油供給ルートをしっかり確保していました。

英国の石油供給ルートを安定させた立役者は、1911年に海軍大臣のポストについたウィンストン・チャーチルです。
チャーチル卿は石油の重要性を早くから見抜き、ボルネオ・ビルマ・エジプトなど石油産出国に手を回して原油確保に努める一方、政府出資で石油会社を設立しペルシャ南西部の油田開発を始めました。
――この会社が今日モービルやエクソンと並ぶ国際石油資本、BP(旧ブリティッシュ・ペトロリアム)の前身であります。
前世日本海軍はこのイギリスの石油会社の子会社と契約して、ボルネオから石油を輸入していたのですが、いざ国際情勢の雲行きが怪しくなってくれば敵国日本に石油を売ってくれるはずがありません。
……石油に対する日本の考えの甘さ鈍さが結局日本のクビを締める事になりました。
燃料不足、これこそ石油を輸入に頼らざるを得ない日本にとって、アキレス腱とも言うべき大弱点であります。
油一滴、血の一滴。
そう言い交わして、前世日本では燃料の節約にひたすら努め、石油タンクの残量を常に気にしながら戦いに臨んだのでした。
もちろん南方からの物資を当て込んで、真珠湾と同時にインドネシアを占領したのですが、せっかく油田を押さえても、きちんと石油が日本に届いたのは昭和17年まで。
大戦後期には石油を満載した輸送船は次々と沈められ、日本には石油が届かなくなってしまいました。

イギリスはUボートの撃退に成功し、日本は米潜水艦にかたっぱしから輸送船を沈められ、生命線とも言うべき補給を断たれてしまいました。
この差はいったい何が原因なのでしょう。
イギリスが潜水艦に対して有効な輸送船団隊形を確立させたことがまず挙げられます。
日本は小口でその都度船団を組み、イギリスは堂々の大船団を組む。
どちらが襲いやすいかといえば、当然小船団です。
大規模船団だとヘタに近づけば潜水艦のほうが取り囲まれて、上から爆雷をどんどん投げ込まれてやられてしまいます。
典型的な日本の輸送船団というと、10隻未満の輸送船に1隻の老朽駆逐艦、護衛空母はなし。
一方イギリスの輸送船団は、60隻以上の大輸送船団に8隻の護衛艦、護衛空母つき、しかも搭載機にはレーダーあり。
艦隊決戦しか頭になかった日本には、そもそも護衛空母がたった5隻しかありませんでした……。

戦争後期には、護衛艦も護衛空母もなく、単艦で出港した「特攻輸送船」もありました。
しかしどの輸送船も本土にたどり着くことなく、哀れにも海の藻屑となりました。
ガソリンを積んでいた船はことさらに無残でした。
砲弾がガソリンに引火すると船は一瞬のうちに爆発爆沈してしまい、乗組員は退避できなかったのです。

切羽詰った前世日本は石油についてはありとあらゆることを試していました。
石炭を液化できないか、松の根っこから精製した松根油を代替ガソリンにできないか、水から石油をつくれないか――
しかし「補給」という戦争の基幹はそんな小手先騙しの方策では如何ともしがたいものであります。
原油はどこから、輸送手段は、ルートの安全確保は、精製施設は、etc……。
補給を軽視した前世日本海軍は、重油がないためにせっかく揃えた艦隊を満足に動かすことができませんでした。
後世日本のロジスティック対策は万全だったのでしょうか?
大高首相と高野総長がそのあたりちゃんと手配してくれていると信じて、今回はこれにておしまいm(__)m


 ※参考図書
 「輸送船入門」 大内建二著 光人社
 「日米開戦勝算なし」 NHK取材班編 角川書店
 「陸軍燃料廠」 石井正紀著 光人社
 「軍艦長門の生涯」 阿川弘之著 新潮社