◆海軍のお正月
正月を迎える準備作業を海軍では「越年準備」といっていました。
越年準備で一番大がかりな作業は「内外舷総塗粧」です。
塗粧(としょう)とは広辞苑にも載っていない言葉ですが、ようするにペンキ塗りのことです。
外舷内舷はネズミ色、居住区は白、居住区の汚れやすい裾の部分は錆色のペンキを塗っていました。
ペンキ塗りたて状態のなかで暮らすのはなかなか物騒だったと思います。
一般居住区用白ペンキの乾燥にはおよそ二十一時間かかりました。
乾くまでロープを張って、うっかり触らないように注意を促していましたが、なにせ狭い艦内のことです。
生乾きのペンキで軍服を白く汚してしまうことを「ペンキ泥棒」というそうですが、その時は慌てずに汚れた個所を軍帽で擦ると、とりあえずは目立たなくなるそうな。
※塗粧はお正月準備時だけでなく、観艦式の前に塗粧、寄港する前に塗粧、訓練が終わったら塗粧、帝国海軍はいつもその艦隊をピカピカに保全していました。
しかし、昭和十八年には物資不足が深刻化し、塗粧も最低限にするようにとのお達しが出されています。
●艦営需品(塗料)節約に関する件 昭和十八年九月二十一日 軍務一第一七三号
……艦船外舷の塗換塗粧は、従来の慣例を廃し、防錆目的達成の最小限度を目途とし、年一回程度入渠時等のみに塗粧するものとす。
艦船内舷の塗換塗粧は、原則としてこれを行わず……
節目節目に美々しく塗り替えていた「内外舷総塗粧」は、もはや昔日の夢。
あるものは迷彩塗装に変えられ、あるものは艦内火災を防ぐため居住区の白ペンキを剥がされて、帝国艦隊は戦場に向かったのでした。
ペンキ塗りが終わったら、次は年末大掃除。
海軍では毎日時間を取って掃除をしています。
しかも軍艦日課では土曜が整備日課となっており、平常の掃除に加えて毎週土曜日の午前中いっぱいを大掃除の時間に充てておりました。
この毎週土曜日の艦内大掃除とは――
……毎日の日課手入れには時間の制限ありて手近き所のみに止むるを常とするも、此の時は如何なる難所も掃除し一週間分の汚物塵埃は残りなく一掃すべし。
甲板士官は洋角燈により隅々まで覗き込み、常に手を以て塵埃の有無を検すべし……
「衛兵副司令甲板士官勤務参考/海軍省教育局」より引用
いかなる難所も、とか、掃除の仕上がりは撫でてみて確認とか、気合いが入りまくってます。
こんな掃除を毎週やっていたら埃のたまる暇がないと思うんですが、それでも年末大掃除が艦をあげて行われました。
そして大晦日になると、いよいよ松が飾られます。
松飾りをつける場所と期間は『艦船ノ松飾装着法』で規定されています。
●装着個所
檣頭(しょうとう……マストのてっぺん)
艦首旗竿
後部旗竿
舷門(げんもん……艦の出入り口)
●装着期日
十二月三十一日午前
●撤収期日
一月四日起床後
松飾りが整った頃には、艦内でも鏡餅が艦内神社をはじめ要所要所に供えられてました。
これで艦の越年準備は完了です。
軍艦の飾りというと、あと満艦飾と電飾がありますが、満艦飾は紀元節、天長節、明治節、観艦式、御即位礼などの大典、皇族・外国皇族をお迎えしたときに行います。
正月には行いません。
電飾(電燈艦飾)は国家の大典、観艦式に行います。
※現在、海上自衛隊が満艦飾を行う日は
建国記念の日(二月十一日)
天皇誕生日(十二月二十三日)
憲法記念日(五月三日)
文化の日(十一月三日)
自衛隊記念日(十一月一日)
の五日と観艦式当日です。
あと、港祭や博覧会などの行事に自衛艦が参加する際に、海上幕僚長が必要と認めれば満艦飾が行われます。
明けて元旦――
清々しく整えられ、正月らしく松飾りも付けられた艦の様子を見てみましょう。
艦内はがらんとしています。
十二月二十一日から一月十一日の期間を前期と後期に分けて、乗員の半数が交代で休暇を取っているのです。
人が減って普段なら肘が当たりそうな窮屈な食卓が、スカスカになっています。
そして食卓の上にはさすがお正月、普段よりご馳走が並んでいます。
正月三日は三食のうち二食が白米、一食が餅になりました。
艦によってはお昼に日本酒を一合つけたり、和菓子を配るところもありました。
余裕のある食卓で、いつもの麦飯でなく白いご飯やお餅を食べる……兵員にとってはじつにうれしいお正月の食卓でした。
お正月は訓育・教練・日課は休業になりますが、
起床 ○六○○
朝食 ○七○○
日課手入れ ○七四○
軍艦旗掲揚 ○八○○
診察 ○八一五
とここまでは通常通りです。
○九一五から遙拝(ようはい)式が行われます。
遙拝式は『海軍礼式令第百二十六条』に
『――艦船に於いては第五十七条の規定に準じ、総員整列して宮城の方向に面し、敬礼を行い終わりて御写真を拝すべし――』
……と定められている儀式です。
この遙拝式には正装で臨みました。
正装は、帽子は仁丹帽、燕尾服型上衣に金繍のエポレット、金モールの入ったズボン、持っている勲章記章を全部佩用し、金線入り黒皮の正剣帯をしめて長剣を帯びました。
艦隊生活でこのたいそうな正装を着用するのは、新年・紀元節・天長節・明治節の四大節の儀式と臨御の観艦式のみです。
正装は生地も仕立ても当然お値段も最高級、まことに美々しい軍人の晴れ姿ではありましたが、駆逐艦乗りは大変でした。
駆逐艦には御真影が置いてなかったので、遙拝式当日は御写真を拝しに旗艦まで、艦載水雷艇か内火艇に乗って行かなければなりません。
風のない日ならまだしも、時化ていたり季節風が強いと、正装の金モールが潮気を吸ってしまって緑青を吹いてしまうのです。
ましてや、ビロードの仁丹帽の上からざばっと波しぶきを被った日には泣くに泣けません……。
一方同じく御真影のない潜水艦の士官は、かさばる正装一式は礼装かばんごと潜水母艦に預けていたそうです。
なにしろ余分なスペースがないうえに、湿度百パーセントの潜水艦。
潜水母艦が一緒でない場合、潜乗員は通常軍装・略装でも可――『海軍服装令』には、着替えどころか顔もろくに洗えないドンガメ生活に配慮した施行細則がつけられていました。
※余談ですが、正装礼装は夏冬兼用です。
夏場はどうしていたんでしょうか。
立襟燕尾服の正装も大変ですが、礼装も折襟カッターに蝶ネクタイ、紺ラシャ厚地のフロックコート、です。
冷房のない時代に、フロックコートで宮中午餐のテーブルについたら汗みずくで、さぞ大変だったと思います。
昭和八年八月二十五日、特別大演習観艦式が横浜沖で行われました。
昭和天皇が御召艦で親閲される、いわゆる臨御の観艦式に当たります。
士官は正装、准士官は礼装、というのが規定ですが、さすがに炎天下の八月、実際は白の二種軍装に長剣だけで万歳三唱した――と当時《迅鯨》乗組の主計少尉だった瀬間喬元海将補が書き残されております。
やはり真夏の甲板で大礼服は無理だったようです。
これは大正三年に施行された『海軍服装令』で
『夏季に在りては短剣に代ふるに長剣を以てするのほか第二種軍装に同じ』
という特例が設けられたおかげでした。
しかし、この特例も親補式などで宮中に参内するときは適用できませんでした。
ズボンのみを白リネンにして、真夏でもきっちりフロックコートを着込んで式に臨んだのでした。
遙拝式のあとは正装で記念写真を撮り、士官室で乾杯して万歳三唱。
その後、適宜正装から通常礼装に着替えてその日一日を過ごしました。
通常礼装とは蝶ネクタイのフロックコートの礼装上下に通常の軍帽で長剣はなし、という軍装です。
蝶ネクタイのかしこまったスタイルで、お正月の一日をレコードを聴いたりお餅を食べたりして過ごしたであろう海軍士官……ちょっと窮屈だったかも、ですね。
※艦内に在りては日没後軍装 ――『軍艦例規 軍艦週課日課規則 第十四条』
しかしこんなのんびりした光景も平時なればこそ。
●海軍服装令第七条
戦時に於いては正装、礼装又は通常礼装を為さざるを例とす
盧溝橋事件から一年経った昭和十三年七月、この条項が「支那事変に関し当分の間」という但し書をつけて適用されました。
ところが、支那事変(日中戦争)は「当分の間」どころかずるずると拡大・泥沼化し――日本はそのまま太平洋戦争へと突入してしまいました。
せっかくの正装礼装は使用される機会もなく、仕舞い込まれたまま終戦の日を迎えました。
支那事変後に任官した人は、着ることのなかった正装礼装一式を月賦で誂えたことになります。
正装・礼装をやめたとはいえ、戦時中もお正月行事は従来通り行われていたようです。
昭和十七年、緒戦の連勝に沸き立つ連合艦隊のお正月の様子を宇垣纏参謀長の日記でみてみましょう。
一月一日 木曜日 晴れて西風強し
支那事変以来第六年、大東亜戦争第二年の新春を迎ふ。
竹の園生の弥栄と国運の画期的発展を祈ると共に、速やかに征戦の目的貫徹を期す。
開戦以来まだ二十五日に過ぎざるも、作戦の発足順調にして三月一杯を俟(ま)たずして第一弾作戦を終わるの望充分なり……
遙拝式、御写真参拝、祝杯、記念撮影等の行事例に依る。
文面からは勝ちに乗じ高揚した司令部の様子がうかがえます。
しかし、華々しい戦果に酔えたのも最初の半年の間だけでした。
この年の六月にミッドウェー海戦で空母四隻を失い、翌年二月、ガダルカナルから撤退。
四月、山本五十六長官戦死。
五月、アッツ守備隊玉砕。
十一月、マキン・タラワ守備隊玉砕。
占領確保の難しい島嶼部に、攻勢に転じた米軍が次々と襲い掛かりました。
●官房軍第一四一四号 昭和十八年十二月二十一日
大東亜戦争中戦地に於て、海軍礼式令第三編第二章の遙拝式を実施すること困難なる場合に於ては、所属長官の定むる処に依り其の一部又は全部を省略することを得
もはや遙拝式だ記念撮影だといってられなくなった前線……。
まもなく絶対国防圏も守りきることができず、玉砕と特攻の悲劇が繰り返されていくのでした。
昭和二十年一月元旦 午前薄雲午後晴
皇紀二千六百五年の新春を熾烈なる決戦下に迎ふ。
真に帝国浮沈の関頭に立つ。
多言を用ふるに堪えず。
馬齢五十有余を重ぬる身、尚若桜に遅れてをらざるの覚悟充分なり。
餅も二合の酒も数の子夫々配給ありて昨夜三回の警報にもひるまず、矢張り正月らしき気分は何処かに漂ふ。
本土決戦を控えた悲壮な覚悟がうかがえる文面です。
宇垣さんはこの後、第五航空艦隊司令長官となり、航空特攻作戦を指揮しました。
宇垣長官の命令の下、出撃した特攻機は千八百六十八機――(「戦史叢書・沖縄方面海軍作戦」による)
幾多の若桜を送りだした宇垣長官の心中はいかばかりか……。
八月十五日夕、海軍中将の階級章を外し、山本元帥の遺品の脇差を手にして、宇垣長官は《彗星》で最後の特攻として出撃していきました。
※参考図書
「海軍よもやま物語」小林孝裕著/光人社
「海上自衛隊旗章参考書」海上自衛新聞社
「素顔の帝国海軍」瀬間喬著/海文堂
「わが青春の海軍生活」瀬間喬著/海文堂
「日本海軍軍装図鑑」柳生悦子著/並木書房
「戦藻録」宇垣纏著/原書房
「海軍諸例則」海軍大臣官房編/原書房