◆PARADISE LOST


(ああ、あの本は?)
ある夜半、書庫にいた大石は一冊の洋書に目を留めて立ち止まった。
読書家の大石は邸内に書庫を設けている。
そうでもしないととてもそのおびただしい蔵書を保管出来ない。
和書、洋書、新刊、古書……所有者の知識欲と広範囲にわたる興味を示す多様な蔵書の数々であった。
あまり目につかない書棚の下段に置かれていたその洋書の紺の背表紙に大石は手を伸ばした。
ミルトンのPARADISE LOSTだ。
ふと立ち寄ったインバネスの古書店で、金糸を織り込んだ美しい装丁に惹かれて手に入れた思い出のある本である。
この神と悪魔の壮大な叙事詩に読みふけった夜々の想いが懐かしく思い起こされた。
大石は本を開き、ページを繰った。
……幸あれ。聖なる光よ。天が始めに生みし子よ……
(おや? これは?)
大石は本の中に挟まれた紙片に気がついた。
一枚の白い便箋に書き込まれた万年筆の懐かしい筆跡。
(これは……そうだ、あのときの)
この本を読んでいた夜、私室をノックした彼。
思いつめたような顔をした彼に手渡された、一枚の便箋。
言いたいことはこれにみな書いてきました、とだけ言い残してすぐに立ち去った彼。
仲違いとも云えない些細な行き違いを彼がこんなに気に病んでいたとは。
大石はこの文面を読むとすぐ、部屋を出て彼の後を追った。
「俺はぜんぜん気にもしていない」
そう告げるために。
(そうか、あのとき俺はこの手紙をこの本に挟んでそのままになっていたのだな。忙しさにまぎれてこの本を再び開くこともなく。……よく無事に日本まで辿り着いてくれたものだ)
忘れられていた古い詩集と古い手紙。
大石はいとおしそうに思い出の品を見つめた。
(続きを読んでみようか。あのときのように眠りにつくまでのひと時に)
大石は手紙を挟んだ本を手に寝室に向かった。


天国と地獄。
アダムとイブ。
……ああ花々よ、婚姻のあずまやよ。どうしてお前から離れ暗く野蛮な下界へと往けようか?……
大石は本を脇に置くと、手紙を取り出して再び眺めた。
彼はこんな手紙を書いたことを覚えているだろうか?


「大石さま。あなた……」
ガウンを羽織ったマーガレットが寝室に戻ってきた。
彼女は紙片を手にしている夫に近づくと彼の手元をのぞき込んだ。
「何をご覧になってるの?」
夫の大きな肩に甘えるようにマーガレットはそっと寄り添った。
「ん? ……」
大石は片手を彼女の腰に廻して優しく抱き寄せてやる。
日本語の手紙をマーガレットがのぞいても読むことは出来ない。
「これか? これは……」
大石は手紙の内容を英訳してやる。
マーガレットは読めなくても手紙の文面を大石と一緒にじっと見つめていた。
大石に寄りかかりながら、興味深そうに東洋の文字の濃淡に目を通す。
「……本にうっかり挟んだままになっていたんだよ。懐かしいな」
優しく微笑む夫の表情に、マーガレットは小首を傾げて見入った。
「そんなに懐かしい人?」
マーガレットは夫のパジャマの胸に手を置いた。
青い瞳が悪戯っぽく大石の顔を見上げる。
「……大石さまの特別な人?」
「おいおい、相手は男だぞ」
「……男の方でもです。大切な人?」
マーガレットは大石の露出した胸肌を撫でる。
堅く締まった逞しい胸。
「大切で特別な、男、だ」
大石が笑って答える。
「妬けますわ……」
嫣然と微笑むと、彼女は夫のくつろいだパジャマの襟元を押し広げて胸元にキスをする。
「男に妬かれてもなあ……こら、痛いじゃないか」
マーガレットが軽く噛んだらしい。
「……今晩はその方の思い出とおやすみになるの?」
妖艶に彼女は大石を軽くにらんで微笑んだ。
「まさか」
大石は傍らのテーブルに手紙を置くとマーガレットを抱き上げベッドに運んだ。
「あなたを頂くよ……ふう、重いな」
「失礼ね……」
テーブルの上の手紙がふわりと揺れる。
……やがて甘い囁きも途絶えて明かりが消され、濃い闇の帳がふたりの寝室に下ろされた。