◆追憶
この季節になると、父に手を引かれて庭を散歩したことを思い出します。
木々の若芽がうす緑色に萌えだしてきれいだった。
株元にスイセンがかたまって咲いていた。
うす紫の星型の小花も咲いていた。
こちらの庭師に聞いたら「ベツレヘムの星」と呼ばれているようですね……正式な名は何だったかな?
ストラスモア伯は小首を傾げて考え込んだ。
そうした仕草も母親とそっくりだから不思議なものである。
彼は髪に幾筋か白いものが混じる、ハシバミ色の瞳が優しい美男子だった。
その気品のある顔立ちは英国一の美貌と謳われた彼の母親によく似ていた。
「ねえ、とうさまはお船にずっと乗っていたの?」
彼のかわいい息子はまだよく廻らない口でそんなことを聞いてくる。
「ん? お船にかい? そうだよ、とうさまは大きなお船に乗っていたんだよ」
優しく微笑んで彼は答えてやる。
……桜の後の若葉が俺は好きだ。わずかに残った名残の花びらと若葉と。みずみずしい春の息吹そのものじゃないか。
ときおり吹く春の風に、そのわずかな花びらも枝を離れてひらひらと散ってゆく。
「かあさまもお船に乗っていたの?」
ふふ、と彼は笑う。
「いいや、かあさまはずっとおまえのそばについておいでだったのだよ。ずうっとね」
彼の留守中に生まれた子供。
彼が日本に帰ったときには息子はもう歩き出していた。
やあ、忠良、はじめまして。……おやおや、私を見てびっくりしているよ。
茶色の巻き毛のかわいい子。
マーガレットにそっくりなきれいな子。
「軍令部より入電。……平文です」
「平文? 読み上げろ」
富森艦長が不審げにかたわらの通信員を見た。
「はッ。……忠義の忠、蔵良の良、忠良と命名す。母子ともに至って健康……」
わあぁ!
艦橋内に歓声が上がった。
大石に子供が誕生した。
「おめでとうございます、長官」
富森が微笑む。
「ありがとう」
大石は照れくさそうに笑う。
さすがに嬉しさを隠しきれない。
わざわざこんな形で知らせてくるとは、高野らしい茶目っ気だ。
「男の子ですね。おめでとうございます」
原も大石を祝福する。
「うむ、名づけをな、総長に頼んでおいたのだ」
「忠良、ですか。いい名ですね」
「うん」
……良かった。本当に良かった。
部下の前であり、大石は必死でこらえたが涙がその眼に浮かんできていた。
分娩が心配だった。
またしても、身重の妻を残しての出航に大石は不安を抑えきれなかった。
いくらマーガレットが健康であるとしても、産は命懸けの大仕事である。
……俺もやっと父親になったのか。
そういう感慨が湧いたのは、それからずっと後のことである。
そのときはただ、マーガレットが無事出産してくれた、それだけで神に感謝したい気持ちだったのである。
……きれいだな。あなたは本当にきれいだな。
それが父の最期の言葉です。
母を見て父は微笑んでました。
……愛しているよ、あなたに出会ったときからずっと愛している。
母にそう言ってから……。
なんでも生前から父はこう言っていたそうです。
「愛なんて言葉を使うのは一生に二度でたくさんだ。プロポーズのときと死ぬときと」
父は言葉どおりに母に二度だけ愛している、と言ったわけです。
仲のいい両親でした。
深くお互いが愛し合っていました。
母は父の死後、私と一緒にイギリスに戻りました。
今月八十一歳になりました。
今でも彼女はとても美しい。
私の自慢の母です。
彼女は領内の館で私たち家族と同居しています。
孫に囲まれ、好きなバラを丹精して……。
私も父が母に出会った年をこうして越えてしまったわけですが、つくづく父はすごいと思いますよ。
こんな年から母と大恋愛をしたんですからね。
アルバート・忠良・ダグラス・ライアン(ストラスモア伯爵)談
2003年春、英国スコットランド、グラームス城にて