◆バラの移り香


自分が、今、どんな顔をしているか。
大石は少し自信がなかった。
出迎えた原と富森には、帰艦した大石の表情はいつもより硬く見えた。
……お疲れになったのだろうか?
……英国側がまた虫のいい要望を出してきたのではないか?
「お帰りなさい、長官」
「お疲れさまです」
気遣いをこめて自分を見つめるふたりに大石はうなづいてみせた。
「何か変わったことは?」
まず艦長のほうを見て大石は問いかけた。
「いえ、とくに何も」
「そうか、ご苦労」
艦長は一礼すると、後ろに控えていた当直将校と共に艦橋へ戻っていく。
カンカン、カンカン……。
甲板ではちょうど午後六時の四点鐘が打ち鳴らされていた。
水平線上に夕焼けのかすかな痕跡を残す波静かなスカパフローの沖に、そろそろ夜が訪れようとしていた。


大石のそばに一人残った原は、彼の上官に柔らかな視線を投げかけた。
「いかがでしたか?」
いたわりのこもった原の問いかけに
「ああ。苦戦しているらしいな、英国軍は」
大石はチラと微笑んでみせた。
「そうですか……」
「うむ、いつものことだがな」
人の心を見透かすような原の視線を避けるように、大石はスッと先に立って歩き出した。
ふわり、といい香りが大石から香った。
ほのかに甘い花の香り……。
香水?
原は息を深く吸い込んだ。
……気のせいだったか? たしかに長官から香ったような気がしたのだが?
大石の後につき従いながら、原は首を傾げていた。


バラの香りが、大石の軍服の肩口に移っている。
香り高いバラの花をその腕に抱きしめたせいだ。
なんということをしてしまったのだろう。
原とドアの前で別れて、長官室のソファーにどっかりと腰を下ろすと、大石は全身の力を抜いて目をつぶった。
女王の恋を受け入れてしまった。
自分の本心も打ち明けてしまった。
……女王陛下、愛しいマーガレット。
熱い想いがこみ上げてくる。
大変なことを仕出かしたという意識はあっても、どこか気持ちは浮ついている。
女王を腕に抱き、その唇に触れたのだ。


涙の痕のついたかわいい頬。
少し怯えた青い瞳。
あどけない唇。
女王の威厳を取り払うと、無垢な少女がいた。
無垢な少女がそのまま成長したような可憐なマーガレットが。
……あなたの涙に誰が耐えられよう? あなたの想いをどうして拒めよう?
油断だった。
女王の涙に無理をしていた自制心がガラガラと崩れ落ちた。
今になって慌てて善後策を考えている自分がいる。
まさかもう、なかったことにしてくれとは言えない。
だいたい大石自身がその腕に抱きしめた女王の瞳を忘れられそうにもない。
……この腕に抱きしめたときの、あなたの瞳。なんて瞳で男を見つめるんだ、あなたは。
魂が震えた。


ただ、後先も考えず。
……恋。
そんなものに足元をすくわれるなんて、この年になって。
「俺もまだ若いな」
大石の精悍な面に苦い微笑みが浮かんだ。
自分でもわかる、軍服についたほのかなバラの香り。
マーガレットのたおやかな腕が、まだ纏わりついているような錯覚が起きる。
耳元に残る彼女の息遣い……。
今夜はもう何も考えられない。
……あなたのこと以外は。


カンカン……。
午後七時を報せる二点鐘がすっかり宵闇に包まれた甲板に寂しく響き渡る。
時鐘を打った番兵の靴音がコツコツと遠ざかっていく。
静かな波が日本武尊の鋼鉄の装甲にヒタヒタと打ち寄せていた。
日本武尊の長官室では恋に落ちた長官がひとりため息をついていた。
英国女王の求愛を受け入れた幸せな男が……。
波穏やかなスカパフロー泊地で日本武尊は今日の眠りに就こうとしていた。