◆スカパフローの空
青い、青い空と海だった。
艦上を吹き渡る潮風が爽やかだった。
女王は心が躍るような想いと興奮を抱えたまま、仮王宮の執務室に戻った。
午後のお茶も断ってこの執務室にまっすぐ戻ったのは、誰とも話したくなかったからだ。
心に残った印象を今一度ゆっくりとひとりで反芻したかったのだ。
マホガニーの大きな執務机の前に座っても、書類に触る気もしない。
柔らかな午後の光が降りそそぐ執務室で、机に両肘を突いたまま、女王はうっとりと窓越しの空をみつめた。
この空はスカパフローの空に続いている……あの青空に。
青空を背に艦上で彼女を待ち受けていたのは、上背のある風采堂々とした提督だった。
少し傾いた軍帽の下の、浅黒い端正な面差しは武人らしく精悍だった。
柔和な微笑に韜晦されてはいたが、その強すぎるまなざしはためらうことなく女王に注がれていた。
――青い、青い空と海が水平線の彼方で響きあい溶け合っている。
大石の視線を受け止めた瞬間、女王は周囲のざわめきが瞬時遠のいたような気がした。
日本海軍の飾り気のない地味な軍服に身を包んだ提督。
彼のこの強靭なまなざしが英国の危機を救ったのだ――断固とした意志と深い知性、温かな人柄をも感じさせる提督の瞳に、女王は大昔の救国の英雄ドレイク提督を仰ぎ見る思いだった。
提督の苦みばしった男らしい容貌を、何者も恐れぬ大胆な瞳を、女王もまた呼吸を忘れたかのようにじっとみつめかえしていた。
勲章授与式は淡々と滞りなく進んだ。
儀典に慣れた女王は手順を熟知していたし、大石も晴れの舞台であがるような神経の細い男ではない。
ただ、女王が紺の軍服の胸に勲章をつけているとき、そして彼の手をとったとき、大石は目を伏せて少しはにかんだ表情をみせた。
少年のようなその初々しい表情が女王には意外だった。
ふと、女王は大石提督に予定外の言葉を掛けてみたくなった。
考えるよりも先に、言葉はとりとめのない質問となって彼女の唇からこぼれていた。
「提督は未来を信じますか?」
彼女の唐突な問いかけに大石は一瞬戸惑ったが、すぐに優しい微笑みが彼の表情にさざなみのように広がっていった。
大石は女王の瞳のなかに、すべてを見てとったのだろう。
英国の将来を憂える若い女王の重苦しい不安と、旭日艦隊を率いる自分に向けられた縋るような期待を。
年若い女性でありながら、大英帝国の威信を一身に担う彼女へ、いたわりを込めて大石は力強く言い切った――
「信じます」と。
大石の自信溢れる落ち着いた表情と語調が女王には頼もしかった。
なによりも彼の温かいいたわりの気持ちが嬉しかった。
彼女を優しく包み込むように見下ろした、大石のあの思いやり深い真摯な笑顔が忘れられない。
……青い空と海がよく似合う方だった。
女王は空を見上げてため息をついた。
……もう一度会いたい、あの方に。
女王陛下と大勢の記者を迎えての式典も無事終わり、日本武尊の艦内は日常業務のざわめきを取り戻しつつあった。
美しく気品に満ちた女王に乗組員は深い感銘を受けていた。
大石とて例外ではない。
間近に言葉を交わした女王にはまさしく君主ならではの気品と威厳があり、大石に心からの敬服の念を抱かせた。
だが敬服の念だけでは片づけられない感動が、今なお大石を揺さぶり続けている。
女王が手ずから彼の左胸にビクトリア・クロスを付けてくれたとき、ふわっといい香りが女王から香った。
大石は神妙に目を伏せ、直立不動で女王が勲章を付けおえるのを待った。
間近すぎる女王陛下を直視するのはさすがに憚られたのだ。
だが、伏せた目の端に映る女王の尊顔の麗しさに、体温すら感じられそうな至近距離に、さっきから彼の心臓は早鐘のように高鳴りつづけていた。
勲章を彼の胸に付けおえた女王は、彼の手をとり大石の目に優しく微笑みかけ、記者団のほうに顔を向けた。
大石は女王とともにカメラのフラッシュを浴びながら、柔らかな女王の手の感触に全身がカッと熱くなるような興奮を覚えていた。
……なるほど記者団への心遣いもお忘れにならないのだな。さすがにマスコミ慣れなさっている。
興奮の一方で、大石は女王の気さくでスマートな挙措に感心もしていた。
「提督は未来を信じますか?」
唐突な女王の問いだった。
彼を見つめる女王の瞳はもの思わしげで憂いを帯びていた。
……おいたわしい。さぞや英国の現状に心を痛めておられるのだろう。
大石はそう思いながらもその憂い顔の魅力に惹きつけられた。
「……未来を信じます」
彼の答えを聞くと女王は可憐に小首を傾げて大石を見上げ、信じきったような青い瞳で甘く微笑みかけた。
その表情のエレガントな愛らしさに大石は完全に心を奪われてしまった。
数秒後、かろうじて彼は平静を装い女王に敬礼した。
彼が中世の騎士ならば即座にひざまずいて彼女に忠誠を誓っていただろう……。
「女王陛下か……」
大石はコーヒーカップを手にひとりごちた。
……素晴らしい方だ。
自分のこの感動が女王への敬慕であると大石は思いたかった。
気持ちがひどく動揺してしまっている。
女王の生き生きとした瞳が、自分に向けられた飾らない率直な表情と言葉が、脳裏から去らない。
……女王でなかったら俺は恋に落ちていたかもしれん。
大石はひとり笑うと艦橋のガラス越しに広がる海原に視線を戻した。
……またお目にかかれる機会があればいいのだが。
スカパフローの空は青く晴れ渡り、海は穏やかに凪いでいた。