◆ 早春〜続き

「レディ・クレア」
大石は寝室のドアをそっとあけ小声で呼びかけた。
手招きされてクレアがドアまで来た。
「熱い紅茶をお持ちしました。よろしかったらどうぞ」
大石は居間のテーブルに用意させたティーセットを指した。
「陛下はもうおやすみですか?」
「ええ」
「ぐっすりと?」
「ええ。なにか?」
「じつは十分だけ陛下とお話したいのですが」
大石はきまり悪そうな顔で話を切り出した。
「今、ですか?」
レディ・クレアが訝しそうに聞き返した。
「ええ。できれば今」
真面目な顔で大石は答えた。
「できれば陛下とふたりきりにしてもらえたら」
レディ・クレアは大石の顔をまじまじと見た。
大石は困ったように首筋に手をやった。
「じつはまだ……陛下に……求婚していないのですよ。陛下に先に行動を起こされてしまいましたので……」
大石は照れてしどろもどろになりながら説明した。
「明日の朝とも思ったのですが、思い立ったときでないとこういうことは……」
レディ・クレアの顔に笑みが浮かんだ。
あの落ち着き払ったオオイシ提督がこんな顔を見せるとは。
「よろしいでしょう、提督。私はこちらでお茶を頂いておりますわ」
「恩に着ます、レディ・クレア!」
大石は彼女の手を取らんばかりに感謝すると、寝室に入り込んだ。
伯爵夫人は軽く咳払いしてドアをそっと閉めてくれた。

ランプシェードの柔らかな光が寝台だけを淡く浮かび上がらせていた。
大石は伯爵夫人がかけていたベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
マーガレットの眠りは浅かったのだろう、大石の気配に彼女は目を覚ました。
ベッドサイドの大石の姿を認めると、マーガレットは不思議そうに彼を見つめた。
「起こしてしまいましたね」
大石は彼女に優しく微笑みかけた。
「……大石さま。夢を見ているのかと思いましたわ」
マーガレットは片手を大石のほうに差し出した。
大石は彼女の手を両手でそっと包みこむ。
「本物ですよ、マーガレット。ご気分は?」
「ありがとう、よくなりましたわ」
たしかに顔色はよくなっていたが、まだ少しつらそうであった。
「まだ夜中です。朝までゆっくりとお休みなさい。こんな時間にお邪魔したのは、あなたにお返したいものがあったからです……」
大石は上着のポケットに手をやった。
「左手でいいんですね?」
大石の手の中にはマーガレットの銀の指輪が握られていた。
「時間もないし事情が事情ですから、式は大高総理と伯爵夫妻に立ち会ってもらって簡単に済ませたいのですが、よろしいですか? あなたの体調さえ回復すれば明日の夕方にでも」
マーガレットは呆然と大石が手にした指輪を見ていた。
そして大石の顔に視線を戻した。
彼女には何の話かよく理解できなかった。
式? 左手?
結婚の話だとしたらあまりにも事務的すぎる!
大石は彼女の表情に気がつかないのか、小さな指輪を彼女の指にはめようと苦心していた。
「薬指でしたね? 関節が痛くないですか?」
マーガレットは大石の手からから指輪をとると、自分で薬指にしっかりとはめた。
妻にするときに返してほしいと彼女が大石に託した母の形見の指輪である。
「大石さま、結婚の話をなさっているのですか?」
マーガレットは戸惑ったように彼に尋ねた。
「ええ、そうです」
「よく聞いていなかったわ……」
「ひどいなあ。一応求婚したつもりです」
「今のが、ですか?」
「だめですかね?」
大石は困ったように笑ってマーガレットの手を取った。
ストラスモア伯爵家重代の由緒ある銀の指輪が、彼女の手に鈍く光っていた。
「まあいいか。あなたに指輪を返せたのだし。明日結婚してくれますね?」
指輪をしたマーガレットの手を優しく撫でながら大石は訊いた。
「明日?」
マーガレットは聞き返した。
「性急すぎますか? もしあなたがきちんと準備を整えて式を挙げたいというなら……」
「待ちきれないから、あなたを追ってきましたのよ、私……」
「じゃあ、明日でよろしいですか?」
「……ええ……」
さすがに恥ずかしそうにマーガレットは目を伏せた。
「よかった! さあ、明日は忙しくなるな! あなたはしっかり眠って元気を取り戻しておいてくださいよ」
大石は喜色満面で椅子から立ち上がった。
「おやすみ、マーガレット」
マーガレットは予想外な大石流の求婚に呆然としていた。
求婚を受けたのは初めてではあるが、もう少しロマンティックなものだと彼女はやはり若い女性らしく考えていた。
大石は立ち去ろうとしてマーガレットの物足りなさそうな表情に気がついた。
「ああ……少しその、ムードがなかったですか?」
嬉しそうな笑みを浮かべた大石の目にチラッといたずらっぽい光がともった。
「十分間という制限時間付きの求婚ですので。ドアの外にはレディ・クレアが居ますしね。甘い時間は明日の楽しみにして、私はこれで退散しますよ」
大石はにっこりと笑うとそのままあっさり部屋を出て行った。
颯爽としたその後姿を見送って、マーガレットは左手に戻ってきた指輪にそっと手をやった。

大石が去ってしばらくして、レディ・クレアが足音を忍ばせてマーガレットの元に戻ってきた。
マーガレットはベッドでぼんやりと青い瞳を見開いていた。
「ねえクレア、大石さまがプロポーズなさったのよ……」
クレアは優しく頷いてやった。
「ねえクレア、大石さまはきっと照れ屋さんなのね……」
「ま……」
クレアは微笑んだ。
「わたくしもそう思いますわ。さ、もうお休みなさいませ」