◆早春〜続き
陽が沈むと風がにわかに冷たくなった。
日没からもう一時間、入り日の名残りもすっかり紺色の宵空に溶け、山の端から連なる針葉樹の梢が黒々としたシルエットを見せている。
女王一行の滞在する財閥I家の別邸は英国風の洋邸だが、その広い敷地の一角には日本庭園とともに茶室風の離れがしつらえてある。
今宵、その小亭にささやかな婚礼の席が設けられていた。
列席者は事情を知る大高、木戸、高野、そして女王に従ってきた伯爵夫妻のみ。
大石はいつもの軍装のまま両手をひざに揃え、マーガレットは彼の隣で光沢のあるアイボリーのドレスの裾をふわりと広げ、ゆったりと座っている。
マーガレットのきっちりとまとめられた金色の髪に、女王愛用の緑柱石とダイヤモンドの髪留めが燦然と輝いていた。
新郎の大石が常になく緊張した面持ちなのに対して、彼女がゆったりと落ちついてみえるのは、身に付いた儀式用の表情が自然に出てしまうからだろう。
実際のところ、彼女は夢の中にいるような心地だった。
異国の見知らぬ場所の、見慣れぬ日本家屋の狭い一室で、彼女の婚礼の儀式が行われようとしている。
……夢ではないかしら。
鈍く光る金屏風も暗い聚楽壁の風合いも、彼女にとっては初めて目にする夢か幻のような不思議な光景だった。
ほんの二時間前、午後の陽がそろそろ入り日の色合いを帯びる頃、マーガレットはレディ・クレアの手を借りて念入りに髪を結い上げたのだった。
こんなことならウェディングドレスは無理としても、せめてレースのベールだけでも用意してくるのだった、とレディ・クレアがブラシを手にしながら残念そうに何度も繰り返していた。
「大石提督にベールを用意して頂きましょう。せっかくの花嫁がお衣装もなしに……」
「儀式は日本式で室内に座って短時間、とおっしゃったでしょう? ベールなど不要ですよ」
さばさばとした女王の言葉に、伯爵夫人は未練たっぷりにため息をついた。
「さようでございますか……」
不服そうにそう応えながらも、伯爵夫人は鏡に映るマーガレットの姿に惚れ惚れと見入った。
たしかに花嫁衣装がなくとも、今日のマーガレットは身の内から光り輝くようなあでやかさだった。
不安と迷いが今は嘘のように消え失せて、女王の青い瞳は情熱的にきらめき、愛と幸福感に満ち溢れている。
……陛下、お美しゅうございますよ、この上なく。
誇らしさと幾分の侘しさを胸に、忠実な伯爵夫人は鏡の前で立ち尽くす――
マーガレットも放心したように鏡の中の自身の姿をみつめていた。
もうあと数時間で、大石の妻になるのだ。
イギリスを捨て、白鳳で不安な一昼夜を過ごし、そして霞ケ浦で大石と再会し……今宵の急な結婚。
鏡の中には、頬を上気させた美しい女性がうっとりと瞳を見開いてこちらを見ている。
マーガレットは自分の頬にそっと触れてみた。
……夢ではないかしら。
幾たびそう思っただろう。
ベールも純白のドレスも波打つ豪華なロングトレーンも欲しくはなかった。
大石の妻になれる、それだけで彼女は何も要らなかった。
そろそろと夕闇が辺りを浸す時分になって、フロックコートに威儀を正した木戸外相が現れて、女王たちを離れへと案内した。
明るさの残る空を背後にして、日本庭園として整えられた樹木や庭石が、ひっそりと生き物のようにうずくまっていた。
木戸に先導されて、苔の間の敷石の上を花嫁の一行は押し黙って進んだ。
ほどなく木々の陰に隠れ家のような小亭が見えた。
薄闇に滲むような心細い灯が小窓から洩れている。
木戸に促されて入った室内もほの暗かった。
行燈を模した古風な明かりが、ぼんやりとした黄色い光でやわやわと列席者の横顔を照らしていた。
幽玄な光と影、金屏風の鈍い輝き、朱色があでやかな漆器、暗い土色の壁、低い木の天井、青い香りの微かに残る畳――すべてが神秘的だった。
まず大高が簡潔に祝辞を述べた。
高野は持ち前のポーカーフェースで、木戸はやや憔悴ぎみながらも柔和な笑みを浮かべて、それぞれ聞き入っている。
座椅子に腰を下ろしたマロウェイ伯爵は、老齢の身に長旅が堪えたのか、その表情に力がない。
いつもの鋭い眼光も畳の上に落としたままで、どうにもこの結婚に乗り気になれない様子で悄然としている。
一方、レディ・クレアのほうは貴婦人然とした傲岸な表情で、異国の要人や儀式などどこ吹く風と毅然と頭をもたげている。
茶室風の侘びた風情にそぐわない大柄な英国の老貴族に、厳めしい軍装の軍令部総長とフロックコートの外務大臣――婚礼の列席者を見渡した大高の口許にふと笑みが浮かんだ。
……これはどうも婚礼というより日英の秘密会談のようだ。
大高自身も新郎と新婦に敬意を表して、久しぶりに陸軍のカーキ色の軍装に身を包んでいる。
こほん、と空咳をひとつして
「――それでは、盃を」
陸軍軍袴の膝を折ったまま、大高はそろそろと床の間を背にした新郎新婦の前に進み出た。
大高は酒器を三宝から取り上げると、まず新郎である大石の朱盃に酒を満たした。
朱盃と大石を皆が注視した。
いつもの不遜なほど強すぎる大石の目が伏せられると、彼の整った顔立ちがなおのこと引き立つ。
大石が神妙に干した盃は、今度は女王の手に渡され、また酒が満たされる。
……私もこれを飲めばいいのですか?
と問いたげに首をかしげてみせた女王に
「どうぞ、お空け下さい」
とほほえみながら大高がうなずく。
言われるままに、マーガレットは盃に口をつけた。
「おめでとう!」
大高がにこやかに祝した。
高野も新郎新婦に祝意を述べるべく膝を進めた。
彼はまず女王に向かってうやうやしく頭を下げた。
女王は高野の礼にゆったりとほほえみを返した。
高野はボストン訛りの英語で祝意を奏した。
だが間近に見る女王の麗しさ、辺りを払うような高貴な威厳に気押されたのか、それ以上くだけて話すこともせずそのまま一礼して引き下がってきた。
そして横にずれて、大石の前に陣取った。
彼はじろりと大石の顔をねめつけた。
大石のほうも平然と高野を見返した。
「……」
「……」
にやり、と高野が苦く笑って沈黙を破った。
「貴様は酒癖があまりよくないから、俺はあえて注がんぞ……かわりに普段飲まない俺が飲んでおいてやる」
手酌で盃を満たして、彼は大石を見据えながらひと口酒を含んだ。
「飲んでしくじってもいかんしな」
真面目くさった顔つきでの高野の揶揄に、大石が片頬だけで笑ってみせた。
「そんなバカ飲みするわけないじゃないですか。そうおっしゃらずひとつだけ頂かせて下さい」
大石は手にした盃をぐっと空けてみせた。
「ふふん、年を考えて慎重に行け」
そう言いながらも、差し出された空の盃に高野は酒を注いでやった。
祝酒が行き渡り、日英間でも和やかな談笑が交わされだした。
大高の温かな笑顔と木戸の如才ない取り持ちで、気難しい伯爵夫妻もいくぶん気分を和らげたようだ。
初めての日本酒だったが、老貴族夫妻は存外美味そうに盃を口にしていた。
高野と大石はなんのかんの言いながら、酒を注いだり注がれたり――
そんなふたりを見ながらも、マーガレットはときおり伯爵やレディ・クレアと目を見交わしては幸せそうにほほえんでみせていた。
ほんの半時足らずで祝言の席はお開きになった。
外はすっかり夜になっていた。
微かに酒の香りを漂わせて、大高、木戸、高野の三人は、離れから車寄せへとゆっくりと歩く。
ほのぼのとした幸せな気分が彼らの胸の内を温かく満たしていた。
一行の頭上で、凍てついたオリオンが天の猟犬を連れて大きく立ちはだかっていた。
大高が星を見上げると、あとのふたりも夜空を仰いだ。
オリオンの肩口からシリウスの背後へと、銀砂のような天の川がうっすらと横たわっていた。
帝都の街明かりもここまでくれば疎らになり、空は暗く星が多い。
ひやりとした夜気に三人の息がほの白く浮かんでは流れていった。
「今宵は節分でしたな」
「福は内、鬼は外」
「節分の夜に外をほっつき歩くのは、我々と鬼だけのようですよ」
「どれ、たまには我が家に早く帰るといたしましょうか」
「そうですな」
祝言の余韻に浸りながら、彼らは帰途に着いた。
夜は更けていく。
豪奢な洋邸のバルコニーのシルエットも、夜の闇に溶け込んでいた。
バルコニーの奥、帳を下ろした寝室では古風な燭台がほの暗く灯っている。
淡い光を背に大石はマーガレットの前に佇んでいた。
大石は何も告げず、ひたすらに彼女をみつめている。
どこかはにかんだような、それでいて真情あふれる大石のまなざしをマーガレットは大きく目を見開いて受け止めようとした。
何を彼は告げようとしているのか……。
言葉を口にしかけては、ためらい、彼はまた黙りこんでしまう。
……どうなさったの?
マーガレットが微笑み、優雅にすっと白い手を差し伸べると、大石は恭しくその手を取った。
ああ、マーガレット……! 俺の女王陛下……!
すんなりした美しく高貴な手に大石は感無量だった。
夫として、この手を取ることができたのだ……ついに。
叶わぬ思いが、いつしか秘めた恋になり、今宵結ばれる。
巡り合ってからの四年の月日、どれほど恋の思いに身を焦がしたことだろう。
「こうしてお手を取ると、あなたと踊った舞踏会の夜を思い出します……」
強いて平静を装い、大石は彼女の瞳にほほえみかけた。
「つい昨日の事のように覚えていますよ。あの夜のあなたのドレスの色も、あなたがどんなに美しかったかも」
大石は頭を少し傾けると、からかうようにマーガレットの顔を覗き込んだ。
「あのときからあなたは強引でしたね。人目も気にせず無理やりダンスに誘ったりして」
「ご迷惑でしたの?」
「はは、なんというか、あなたには勝てないな、と……そうつくづく思いましたね」
あでやかな微笑を浮かべて問い返すマーガレットのまっすぐな瞳に、大石は照れたように視線を外した。
「あなたの予想外の行動ときたら、もうめちゃくちゃだ。私がどんなに困ろうが焦ろうがまったくお構いなしだ。ひどい方です、まったく」
そう言うと大石は彼女の手を取ったまま、いきなりもう一方の腕で細い腰を抱きよせた。
大石は視線を宙に彷徨わせたまま、彼女を胸に抱き、その柔らかな金の髪に頬を寄せる。
彼女から立ち上るバラの香りが、密着した彼女の体温が、彼の官能を妖しくくすぐり彼の声は自ずと低く緩やかになった。
「しまいには、何もかも捨ててこの国まで来るんだから……いえ、言わせて下さい、少しは。なんて無茶で、自分勝手で、勇敢で、可愛い方だ、あなたは」
大石は吐息をついた。
溢れる思いに対して、言葉はあまりにもどかしすぎる。
……この思いをどう伝えたらいいのだろう?
どれほど愛しく思い、どれほど気を揉んだか、この俺がまったく気恥ずかしいほど。
……おわかりになりますか? マーガレット。
大石は目を閉じて、バラの香る彼女の髪にしばし顔を埋めた。
豊かな金の髪。
高貴なダマスクスローズの香りが温もりのある黄金の波となって彼を包み込む。
「あなたの指輪に誓いましょう……」
大石は彼女の指先を口元に引き寄せると、鈍く光る銀の指輪に恭しく唇を寄せた。
気高い女王陛下を一人の恋する女性に変えてしまったことが、後ろめたくないといえば嘘になる。
ナチスに立ち向かった女王として歴史に名を留めるはずが、恋を選んだ元女王としてマーガレットは記憶されることになる。
たとえ大英帝国の民の恨みを一身に受けることになろうとも、大石はマーガレットをもう独りにできなかった、ひとりで泣かせたくなかった。
大石は神妙に銀の指輪に唇を押し当てた。
この由緒ある指輪を伝えた彼女の母である王妃に、父王に、王冠に繋がる高貴な先祖たちに許しを請うように。
「誓います、決して後悔はさせません……」
大石は指輪から真っ白な手の甲に、そしてすんなりとした柔らかな手首へと唇を移した。
「……ですが、もうこれきり、私に内緒で無茶はしないと約束して下さい」
「ええ、お約束いたしますわ」
マーガレットがどぎまぎした様子を隠しきれずに、小声で答えた。
「それを聞いて安心しました」
顔を上げた大石の目はもう笑っていた。
「なんかもう、話すことはいろいろとあるんだが、みんな後だ。今は何より、あなただ」
唐突に会話を打ち切ると、大石はマーガレットを軽々と抱き上げた。
「大石さま……」
「なんです?」
「愛してますわ」
大石は笑顔のまま、マーガレットの唇に軽くくちづけた。
やさしい、いとおしむような、慎ましやかなキスには、大石の心からの愛が込められていた。
それがわかってはいても、マーガレットはもう一度尋ねずにいられない。
「……愛している、とはおっしゃって下さいませんの?」
「以前に申し上げたはずです。二度は申しません」
ぴしりと言い切ると、大石はマーガレットを抱えたままベッドに運んだ。
やっとふたりきりになれた。
誰はばかることなく。
大石はマーガレットをベッドに下ろした。
海風に吹かれたあの晴れた日に、瞬時に恋に落ちて四年。
マーガレットは瞳を閉じた。
恋が成就する、今こそ秘めた思いが解き放たれる。
早春の夜の窓辺には星星がきらめいていた。
霜がうっすらと白くバルコニーを光らせていた。
照和二十五年二月、英女王マーガレット・アレクサンドラ・アリスは大石元帥の妻となった。