◆日曜の朝
精悍な横顔。
秀でた額と真剣な鋭いまなざし。
彼女の愛する年上の夫。
居間のソファで新聞を読む夫の横で、マーガレットは彼の横顔を見ていた。
――がさっ。
新聞のページが繰られ、新しいインクの匂いが流れてくる。
もはや初老の年代に近づいた夫は遠目になって新聞の細かい字を追っていた。
マーガレットはそっと夫の肩口に顔を寄せた。
なんだ? というように夫はちらりと彼女に目をやった。
……いいえ、なにも。
そう目で言って、そのまま彼の肩に頭を乗せる。
――がさがさっ。
また新聞のページがめくられた。
日本の文字は彼女には読めない。
不思議な東洋の文字の列を彼女はぼんやりと眺めていた。
夫からはオーデコロンの香りがかすかに漂う。
オーデコロンは彼女が選んだ。
エキゾチックでセクシーなやや甘い香り。
夫の肌の香にとてもよく合っている。
彼女は白いシャツの肩口に甘えるように顔を埋めた。
……いい香り。
ちらっと甘える彼女に目をやって、大石は眉を少し上げると無言のまま片腕で彼女の肩を抱く。
今日は日曜だ。
大石は今日一日は彼女のものである。
大石は新聞を読み終わり、畳んで机の端に置いた。
「さてと。何を朝から甘えているのかな?」
目に笑みを湛えて大石は彼女に向き直った。
「今日は日曜日ですもの。今日のご予定は?」
「さあ、どうするかな。あなたはどうしたい?」
「ずっとあなたと一緒にいたい……」
「何を甘えているんだか。いったい、どうしたんだ?」
「別に甘えてもよろしいでしょう。いけませんか?」
「別にいけなくはないけどね。じゃあ、好きなだけ甘えてなさい」
「……うれしい」
彼の胸元にマーガレットがぴったりと身をすり寄せる。
……やれやれ。
まったく他愛もない。
大石は苦笑するとソファの背もたれに身体を預けた。
甘えるマーガレットを抱いて髪をやさしく撫でてやる。
外はいい天気だ。
彼女を連れてどこかに出かけるか?
遠出となるとしたくもある。
それも面倒だ。
大石は庭に彼女を誘った。
あまり手を入れずにもとからある雑木をそのまま生かした広い庭だ。
ずっと奥まで行くと裏山にそのまま入ってしまう。
十月の空は青く澄んでいた。
桜の葉が早くも紅葉している。
ひらひらと秋の蝶が舞う。
野菊が下草に混じって可憐な花を咲かせている。
明るいがどこか寂しい秋の朝。
……人生を春夏秋冬にたとえるなら、さしずめ俺は冬の入り口に立っているのだろうな。
大石は傍らのマーガレットを見やる。
……あなたはまだ夏の盛りだ。
マーガレットは家で過ごすときは髪をリボンでまとめていることが多い。
ルイス・キャロルのアリスみたいだと大石がからかったこともある。
からかいはしたが、大石は少女のようなこの髪型が好きだった。
マーガレットの愛らしい笑顔によく似合っていたし、万一彼が髪を乱してもすぐに直せる。
……こうして髪に触れられるしな。
彼女のふんわりとした柔らかな髪を大石は愛しそうに撫でた。
どうなさったの?
そんな顔をしてマーガレットが彼を見上げる。
濃い眉の下の夫の優しい瞳を見上げても、彼の心のうちはなかなか読むことが出来ない。
大石が微笑む。
大石はそのまま彼女の肩を抱くと、またふたりは並んで秋の庭を歩きだした。
マーガレットは大石の横顔をみつめた。
微笑を湛えたハンサムな横顔。
撫でつけた髪に幾筋かまとまった白いものがある。
近頃、大石の髪に白髪が目立つようになってきた。
……落ち着いた感じがして、私は嫌いじゃないわ。
マーガレットは可愛いため息をついて、肩を抱く大石にうっとりともたれかかった。
「今朝はよくよく甘えるんだね」
からかうように大石は言うと彼女の肩を抱く手に力を込めた。
「よろしいでしょ、甘えても」
「そりゃ、かまわんが」
穏やかな秋の日差し。
穏やかなふたりきりの日曜。
こんな日々が送れるとは思わなかった……戦いを終えて役目を果たした自分に、こんなに幸せな後半生が待っていようとは。
今や大石の念願どおり、後世世界は平和な理想の世界になりつつある。
そして傍らには女王だった女性が微笑んでいる。
……あなたを手に入れられたというのが一番の奇跡かもしれないな。
マーガレットの華奢な肩を抱きながら、大石は秋の庭をそぞろ歩く。
ひんやりとした澄んだ空気は、大石にインバネスを思い起こさせた。
「マーガレット。イギリスが恋しくないか?」
一度もそんな素振りは見せないが、異国の地で寂しい思いをしているのではないか……大石はマーガレットの顔をのぞきこんだ。
「なんなら、あなただけでも一度イギリスに戻ってもいいんだよ」
「ええ、そのうちにね」
「遠慮なく言いなさい」
「……優しいのね」
まったく故国が恋しくないと言えば嘘になる。
しかし、もう大石と離れて暮らすつもりはない。
一緒に暮らしていてさえ、こんなにも大石の休日が待ち遠しいのに。
……もう一日だってあなたと離れるのはいや。
マーガレットは無言のまま大石に縋りついた。
「なんだ、どうしたんだ今朝は」
苦笑しながらも、可愛く甘えてくるマーガレットに大石はついつい目尻が下がる。
肩を抱いていた手を彼女の腰に回して、大石はいたずらっぽく彼女の耳元に囁く。
「なんなら部屋に戻ろうか? ……ベッドに」
「違うわ! いやな大石さま!」
赤くなってマーガレットは彼から飛び離れた。
そんな彼女に、大石はさもおかしそうにうつむくとクククと喉だけで笑った。
まったくマーガレットは可愛らしい。
「気を悪くしないでくれ」
大石は逃げ去ったマーガレットに手を差し伸べる。
「冗談だよ……もっとも私は半分本気だが」
赤くなって睨みながらも、マーガレットは大石の笑顔に誘われて彼の手をとる。
「そうだ、栗を見に行こうか? もう熟れて実が落ちているかもしれない」
大石はふと思いついてマーガレットに微笑みかけた。
裏山に栗の木が何本かある。
栗を見たことがなかったマーガレットが夏に青いイガを指差して、あれはなに? と尋ねたことがあった。
「栗? 以前お聞きした、あのトゲだらけの?」
「あの中にちゃんと実があるんだよ。野生の柴栗だから実は小さいかもしれんが」
おいで、と大石は彼女の手を握ったまま、庭の奥に進んでいく。
初めて手にするイガ栗に驚く彼女の顔が目に浮かぶ。
はじけたイガの中に栗の実をみつけて彼女はなんて言うだろう。
無邪気に喜ぶだろう彼女の笑顔を思って、大石は楽しくなるのだった。
――居間には大石が淹れたコーヒーの香りが漂う。
茶色くなった栗のイガがテーブルの上に置かれていた。
今朝の散歩の戦利品だ。
ソファでは大石とマーガレットが抱き合ってキスを交わしていた。
いつしか昼近くになった居間に秋の日が柔らかに照り映えていた……。