◆天測


(日本武尊を見学中に、磯貝参謀が話相手になってくれました)
やぁ、いいお天気ですねぇ。
すっかり春らしくなって、日向はぽかぽかしますね。
どうぞ、ごゆっくりご見学ください。
……はい、何かご質問でしょうか?
ああ、あの士官ですか?
あれは航海士が太陽の高度を測っているんですよ。
天測といって、天体の高度を正確に測定しまして、その数値を元に艦の現在位置を計算するんですね。
ふたり一組で、片一方がセキスタント(六分儀)で水平線から天体の高度を測り、もう一方が正確な時計でグリニッジ時間を計測します……スタンバイ! ストップ! てね。
一秒のずれが何マイルにもなってしまいますから、それはもう慎重に計測いたします。
二時間後にまた高度を測って、子午線緯度法で計算して艦の位置を導き出すんですよ。
昼間は太陽が相手なのでまだ楽なんですが、夜明けと宵は星で計測します。
……いや、特別なことではなくて、海軍士官なら全員、天測はできますよ。
できるはずです、みんな徹底的に実習や遠洋航海で叩き込まれたんだから。
……んー、最後に天測したのはいつだったかなぁ、えーと。
やり方は覚えているけど、長いことやってないから、まごつくだろうなぁ、あはは。
いえ、笑い事にしちゃいけないんですけどね。
天測かぁ……じつは苦手だったんですよ。
……え? なんか思い出を話せですって? はは、弱ったなぁ。

  今日も天測 見上げる空によー  
  泣いたあの夜のヨォー 星が飛ぶよー

――手すりに両肘を乗せて沖を眺めながら、彼は気持よさそうに歌を口ずさんだ。のびのびした節回しで、意外なほどいい声だった――
……巡航節です。
江田島では、週末のカッター巡航に出るとき、これをよく歌いましたねぇ。
天測というのは、船乗りの基本中の基本です。
海軍軍人といっても、まずは船乗りでなくっちゃいけませんからね。
天測実習は兵学校でもやりましたが、遠洋航海で徹底的に叩き込まれます。
候補生泣かせの天測作業……慣れないうちはホント時間ばっかり食いましてね。
毎日毎日眠い目をこすりながら夜明けの空を仰いでは、目標になる星を探すんです。
アルデバランにベテルギウス、ベガにペガサススクウェア、サウザンクロス……目標にした星の名前ですよ。
こうして名前をあげてみると、妙に懐かしいなぁ。
デッキウォッチとセキスタントを持ち出して、後艦橋でなるたけ手早く測定するんですが、星の見えにくい日もあるし、ひどく揺れたりすると細かい作業だから吐きそうになったりで。
セキスタントはクルクルよく回りましてね、ちょっとのことですぐ、望遠鏡の小さな視野から星が逃げてしまいます。
よし、捕まえたと思ったとたん、波で足元が揺れてクルン。
今度こそと意気込んだら、また船が揺れてクルン。
そうやってセキスタント相手にぐずぐずしていると、夜明けの星はすぐ消えてしまうんで、そりゃあ焦りましたよ。
夕方は夕方で、暗くなりすぎると今度は水平線がわからなくなりますから、これまた大急ぎでやらないと。
……ええ、水平線がはっきりしないと高度が測れませんから、夜は天測できないんですよ。
で、苦心してようやく出した数字を天測ノートに控えて大急ぎで部屋に帰ると、今度は航海表を使って面倒な艦位計算をするんです……。
私はどうも数字に弱くって、あるとき、とんでもない計算間違いをしたまま、当直将校にその間違い数値を報告してしまったんです。
そうしたら
「おい候補生、貴様の出した数値によると、本艦艦位は*奈良市猿沢の池中央*となるんだがな……。本艦は亀ではないぞっ! このトンマ野郎!」
もう、当直将校に思いっきりどやされました。
おまけに「こんなマヌケな候補生がいる」と話はいっぺんに練習艦隊に広まりまして……。
遠洋航海中ずっと私は士官たちに「猿沢の池」と呼ばれるはめになりました。
なにをするにも「おい猿沢の池!」ですからね、あれは情けなかったなぁ。

……え? 巡航節をもっと歌え、ですか?
まいったなぁ……じゃ、ちょっとだけ……。

  帽子まぶかに 月の眉隠して
  笑みを含んでヨォー チルラーとるよ

  カッターは出てゆく 湾口の一本松よ
  さして行く手はヨォー 宮島よ

  候補生  少尉候補生。兵科生徒は江田島にある海軍兵学校を卒業すると候補生となり、准士官の上、少尉の下の待遇が与えられる。期間は平時でほぼ一年半。戦争末期には四ヶ月に短縮された。
  練習艦隊  少尉候補生の第一期は遠洋航海にでる。その遠洋航海用の艦隊のこと。旧式の艦を当てたが、乗組員は優秀な人物を選抜して乗せていた。
  チルラー  tiller 舵柄(だへい) 舵を回すために、舵の頭に通してある横棒。カッターでは艇指揮を取る者がチルラーを握る。