◆逃避行

朝もやに滲んでいた太陽が次第にはっきりとしてきた。
二月の空は淡く照り映え、ネス湖の穏やかな湖面は朝日を受けてきらめきだす。
飛行艇《白鳳》は白鳥のような美しい姿をネス湖の緑の湖水に浮かべていた。
燃料搭載を終えた《白鳳》は今、艇の内外の最終点検を行っている最中だ。
桟橋前の広場では搭乗を待つスーツケースを抱えた亡命者たちが行列を作っている。
さきほどから搭乗手続きが始まっているのだ。
亡命者の群集の中には伯爵の一行もいた。
しかしここでも女王の玉璽と外務大臣のサインが麗々しく連ねられた特別亡命許可証の威力はすばらしく、伯爵たちは並ぶことなく桟橋の仮設ゲートまで一気に進んだ。
「マロウェイ伯爵と令夫人レディ・クレア……」
一徹そうな白髪の背の高い老貴族と見るからに権高な貴婦人を亡命申請書の顔写真で確認すると、係官は伯爵夫妻の後ろに立つ若い女性に視線を向けた。
「……ご令嬢のレディ・モニカ・カーマイクル」
黒眼鏡で顔を隠し、スカーフで髪を覆ったカーマイクル夫人が顔を上げた。
「カーマイクル夫人、恐れ入りますが、眼鏡を取っていただけますか?」
係員の言葉に夫人は黒眼鏡をほんの少し浮かせた。
青い瞳がちらりと見えた。
すっと伯爵が娘と係官との間に割って入って、事情を説明する。
「娘は空襲に遭った際、目を傷めましてな。強い光から目を守るよう、医者からきつく言われておるのじゃ……モニカ、ここは眩しい。眼鏡をかけなさい」
伯爵に促されて、夫人はまた眼鏡を元通りにかけた。
「……結構です、カーマイクル夫人。どうぞお大事に」
言葉つきは穏やかだが只ならぬ眼光で令嬢を庇うように立ちはだかった伯爵に、係官はおとなしく引き下がった。
夫妻して目を痛めた愛娘に神経を尖らしているのであろう、伯爵の後ろのレディ・クレアもものすごい顔つきで係官を睨んでいる。
係官も人の子、気位の高い頑固そうな老伯爵たちと無礼だ越権だと揉めるのは面倒だった。
念のため、係官は手元の書類をもう一度確認した。
――金髪。
――瞳、ブルー。
――1918年生まれ、32歳。
もとより不審な点はない。
カーマイクル夫人は一言も口を利かないが、その物腰には気品があり貴族階級出身者なのは間違いない。
係官は気を取り直して、書類の次のページをめくった。
伯爵一家は次の手荷物の検査も問題なく通過したので、無事白鳳の機内へと進むことが出来た。

機内の席に着くと、マロウェイ伯はほっと息をついた。
今のところ誰も伯爵一行に特に注意を向けていない。
亡命者である乗客たちはそれぞれが自分のことだけで頭が一杯で、周りに構う余裕がないのが幸いだった。
伯爵夫人の影に隠れるようにして、マーガレットは黒眼鏡を掛けたまま窓側の席でうつむいている。
なにしろ英国一顔の知られた女性なのだ、なるべく人目を避けなければならない。
日本に着くまでの長い旅は、伯爵一行にとっては一時たりとも気の抜けない試練になるだろう。

「乗客はちょうど100名、全員搭乗しております」
客室の最終点検を終えた乗組員が操縦室に戻ってきた。
「そうか、今回も満員御礼ってとこだな。この分なら民間運営になっても黒字は間違いなしだ」
軽口を叩きながら、西岡機長は渡された乗員名簿にざっと目を通した。
「……アール・マロウェイ? 伯爵が乗っているのか?」
西岡は意外そうに乗組員に尋ねた。
乗客になる亡命者は科学者や実業家がほとんどだったので、必然的にユダヤ系イギリス人が圧倒的に多いのである。
西岡の記憶では白鳳に伯爵を乗せるのは初めてだった。
「やけに上品で気難しそうな爺さん一家がいましたが、たぶんあの人たちじゃないですか? 奥さんと娘さんも一緒です」
「ふうん? ま、それなら一応敬意を表しとくか」
こほんと一つ咳払いをすると、西岡はおもむろに機内放送のスイッチを入れた。

「マイロード、レディス、アンドジェントルメン――」
西岡機長の流暢な英語のアナウンスが流れだした。
マイロードという言葉を聴いて、二三の乗客がきょろきょろと貴族がどこに座っているのかと機内の人の様子を見回している。
……ふん、いらぬ気を遣いおって。
伯爵が気難しげに眉をしかめた。
貴族どころか王族、それも女王陛下ご本人にアナウンスしていると知ったら、この日本人の機長はどれほど仰天するだろう。
「――なお、本機は軍用機であります。独軍との戦闘の可能性があることをご承知おきください――飛行中はくれぐれも乗組員の指示を守って迅速に行動して頂きたく――必ず防弾チョッキをお付けになったままで、またお手許の酸素マスクを今一度ご確認願います――」
西岡機長のアナウンスは丁寧であったが、内容は乗客にこれから戦地を飛び越えるのだという覚悟を求めるものだった。
緊張した空気が乗客たちの間に張りつめた。


やがて出発の定刻になった。
機体を震わせて白鳳が助走を始めた。
窓越しの湖面がゆっくりと動き出し、やがて激しく水しぶきが上がり外の景色が猛スピードで飛び退っていく。
と、ふわりと白鳳は浮き上がり、ぐんぐん大空に向かって上昇しだした。
おお……!
機内に驚嘆と安堵の入り混じったため息がいっせいに流れた。
みるみる小さくなっていく湖面。
すぐにネス湖は視界から消え、白鳳はさらに高度を上げてゆく。
マーガレットは身じろぎもせずに窓の外をみつめていた。
(さよなら、インバネス)
もしかしたら、これが祖国の見納めなのかもしれない。
彼女は震える唇をかんだ。
自分で選んだ道なのだ、いまさら別れの涙など流すまい。

一方、仮王宮では――
事の次第をメアリ王女から知らされたチャーチル卿は愕然としていた。
なんという……! オオイシ提督と陛下が恋仲だなんて……!
目の前のメアリ王女は、言葉を失って立ちすくむ彼を申し訳なさそうな表情で見守っている。
……おお、こんなお顔をされた王女を見たことがある。
衝撃を受けたチャーチル卿の頭脳はショックで真っ白になりながらも、どういうわけかのんきに昔の記憶をたどっていた……そう、あれは先王がご健在だったころ、王女方に政治学のご進講に上がったときのことだ……。
チャーチル卿が伺候した宮殿のご勉学の間には、妹姫のメアリ王女の姿しかなかった。
なんとマーガレット王女は進講をすっぽかして馬場に出てしまったという……真面目なメアリ王女を弁明役に残して。
「ごめんなさい、お姉さまはどうしてもお馬に乗りたいとおっしゃって。お止めしたのだけれどお聞き入れにならなかったの」
「どうして今まで黙ってらしたのです!」
「だって、お約束したんですもの!」
ハシバミ色の瞳をまっすぐ上げて、そうメアリ王女はチャーチル卿に言い放ったものだ。
つまりは共犯。
跳ねっかえりの姉姫と、そんな姉に心酔している真面目な妹姫。
あのときの幼いメアリの表情を目の前の王女に重ねながら、ゆっくりとチャーチル卿は麻痺状態から立ち戻った……。
「で、いつお帰りになるのですか?」
メアリはチャーチル卿の問いかけに首を振ってみせた。
「お帰りにならないと!?」
思わず悲鳴に近い声が出た。
「退位なされるおつもりよ」
静かにメアリが告げた。
「ご退位!」
「とりあえず、しばらくはご休養ということに。陛下のご退位のお気持ちが変わらなければ、私が王位を継ぎます」
毅然とした低い声とハシバミ色の落ち着いた瞳には、姉と同質の紛うことない女王の威厳が早くも宿っていたが、チャーチル卿はそれにも気づかず、新たな混乱の渦にぐるぐると意識を投げ込まれてしまった。
退位……! 日本へ……! しかもオオイシ提督を追って……!
「おお……」
チャーチル卿は床に座り込みたくなった。