◆海軍式ヰタ・セクスアリス〜続き


磯貝は一目散にその場を後にした。
背後から大石と木島の笑い声がしたような気がしたが、振り向きもしなかった。
二人に悪意はないのはわかっているが、話題が磯貝のもっとも苦手とするところにきていたのだ。
原は磯貝を待たずに、さっさと早足で通路を先に進んでいた。
磯貝は走ってその背に追いつき、息を弾ませて原の左横に並ぶ。
「た、助かりましたよ、参謀長」
走ってきた磯貝にちらりと原が目をやった。
磯貝は乱れた呼吸を整えながら、嬉しそうに原の顔を見ていた。
……飼い主の口笛に飛んできた犬みたいな表情だ。
原は唇の端をかすかにゆがめると正面を向いた。
「……で、何をお手伝いすればいいんですか?」
黙ったままの原に磯貝は期待を込めて問いかけた。
「何もないよ」
「え?」
原の返答に拍子抜けしたように、磯貝はぽかんとして原をみつめた。
「バカ、見兼ねて助けてやったんじゃないか。……引き際が悪いから、いつまでもオモチャにされるんだよ、おまえは。いい加減に気づけ」
原はきつい表情のまま、つけつけと小言めかしたことを言う。
「だから、用はない。帰れ」
「はぁ」
「なんだ、ついてこなくていいって言ってるだろ」
原のつれない言葉に磯貝はしょんぼりと肩を落とした。
……なんだこいつは。俺は助けてやったんだぞ?
しおれてしまった磯貝に、内心原はちょっぴりうろたえていた。
そんなにシュンとされると、磯貝がいじらしく思えてくる。
もうふたりは右舷通路の中ほどまで来ていた。
参謀長室はすぐそこだ。
「……まあ、形だけでも部屋に来てもらっとくか、ああ言った以上」
半分独り言のようにして、原はつぶやいた。
「はいっ」
磯貝がとたんに目を輝かす。
原は小さくため息をつきながら、自分の公室のドアノブに手をかけた。
「茶でも飲んでくか?」
入れよ、とドアを開けると、原は仕方なさそうに身振りで促した。
なんでこう磯貝が自分に懐いてくるのか、彼にはどうも得心がいかない。
「……あの、鉛筆でも削ってます」
「いらん。おまえが削った鉛筆なんか、不細工で使えるか」
遠慮がちな磯貝の声と、ぶっきらぼうだがどこかくすぐったそうな原の声が、参謀長室の扉の中に消えていった。


  (旭日艦隊某巡洋艦艦長の証言)
はい、磯貝参謀が少尉だったときの「山城」のケプガンは私でしたが……。
  *ケプガン……第一士官次室(ガンルーム)の最先任士官。普通は兵科の古参中尉。
いい少尉でしたよ、素直で純情で真面目でね。
磯貝参謀には、今もときどきこちらの旗艦で会いますが変わらないですね昔と。
任官祝いの晩の話? いったい誰からお聞きになりました? ハハハ。
いや、なにも磯貝さんに限ったことじゃないですよ。
昔は純情な候補生が多くてね……。
実務に就いても、海軍では候補生は禁欲が建前です。
そのかわり晴れて少尉に任官した夜は、ガンルーム会を開き任官祝いと称して料亭で遊ぶんですよ。
当時「山城」のガンルームには、磯貝少尉をはじめ五人の少尉が配属されていまして。
この五人の新少尉を連れて、ガンルームの連中が料亭に上がりこんだわけです。
さて、宴が果ててそれぞれが部屋に引き取った真夜中、私は便所に立ったんですが、庭に面した廊下に新少尉のひとりがぼんやりと立っている。
『おい、どうしたんだ』
と聞きますと
『月を見ていたんです』
と彼は答えました。
たしかにいい月夜で、庭の石灯籠や植木が煌々と明るい月に照らされていましたっけ。
それにしてもエスと泊まっておいて、ぼーっと月を見ているなんて、おかしなことです。
『エスが気に入らなかったのか? それともうまくいかなかったのか?』
私は新少尉にそう聞いてやりました。すると
『いいえ、そうではないんですが、なんだか虚しくなりまして。お祝いしてくださったのにこんなことを言っては申し訳ないんですが』
彼はそんな事を言うじゃありませんか。
なんとなくですね、私も彼の気持がわかりまして。
しみじみとした気持になりまして、私も彼の横で一緒に月を見上げたんですよ。
しばらくそうしていたでしょうか、私はふと磯貝少尉のことを思い出して、彼のことを聞いたんです。
『磯貝ですか? 彼ならさっき帰りましたよ』
私は驚きました。
『なに、帰った? 通船でか?』
『はい』
通船というのは、港内を渡し賃を取って行き来する、船頭が艪(ろ)で漕ぐ和舟のことです。
こっそり夜中に艦に帰るには、民間の通船を利用するしか手段がありません。
そんな面倒なことまでして、磯貝少尉が帰ったということは……。
いや、芸妓を殴ったとかそんなトラブルを心配したわけではありません。
人柄はご存知の通り、きわめて温和な磯貝さんですからね。
『その、磯貝の様子は? デキなかったのか?』
心配になって私がそう尋ねると
『さあ、詳しくは聞かなかったんで……。ひどく慌てた様子でしたし』
彼も首をかしげて言うんですよ。
磯貝少尉はひどく内気で純情な青年でしてね、その夜も嫌がるのを無理に引っ張ってきたような次第だったんです。
たぶん、なんかあったなと思いながらも、私はその夜はそのまま料亭に泊まりました。
……月を見ていた少尉ですか?
あれは一時の感傷だったんでしょうかね、そのうち上陸というとまっしぐらにエスのところへ行くようになって。
ま、よくある話です、ハハハ。
ところで磯貝少尉ですが、翌朝「山城」に帰ってから彼に昨晩はどうしたのか問いただしてみたんです。
そしたら
『途中でやめたんです』
目を逸らしてそう答えます。
やっぱり気が進まなかったんだな、と聞けば
『するつもりだったんですが、しなかったんです!』
と、ムキになって否定します。
結局しなかったんだな? としつこく聞くと
『……行為はしませんでした。行為に移る前にやめたんです』
なんとも要領を得ないまま、ふーん、と私が頷いていたら、横合いから
『さては舷門ゴーだな』
という声が掛かったので、ガンルーム内で大笑いになりました。
磯貝少尉は真っ赤になって恥ずかしがるし……可愛かったですね、ほんとに彼は。
ええと、舷門とは艦の玄関のことです。
これ以上の説明はご容赦願います……。