◆和風


日暮が遅くなった。
西空にはようやく夕暮れの気配が漂いだしてきた。
隣の屋敷の藤棚からかすかに甘く花の香がする。
……初夏の香りだ。
車から降りた大石は軽く伸びをした。
疲れがたまっている。
久しぶりに日のあるうちに帰宅できたのだ。
マーガレットにもしばらく会っていないが、彼女が待つ洋館に帰る気力が今はなかった。
ともかく住み慣れた我が家でいったん休息したい。
古いが庭の隅々まで手入れが行き届いたこじんまりした屋敷。
前妻の死後も屋敷に残り、万事を取り仕切ってくれるしっかり者のばあや。
ベッドと靴の生活に慣れた海軍軍人ではあっても、大石は和食と畳のほうをじつは好んでいた。
休暇にはこの屋敷でごろごろしているのが何よりの骨休めであったのだが……。


玄関の戸の音にばあやが式台に手をついて出迎えた。
「おかえりなさいませ」
「ああ、いま帰った」
女中が運転手から鞄を受け取り、ばあやの多喜が大石の靴を揃える。
「なにかかわったことは?」
「はい、それがあの……」
ばあやが答えるより先に大石は異変に気がついた。
座敷からマーガレットが出てきたのである。
「一人できたのか?!」
「はい、お車でおいでになって先ほどからだんな様をお待ちでございました」
「来たものは仕方がない。多喜さん迷惑かけたね」
「とんでもございません」
マーガレットに日本語はわからないとわかっていてもつい小声になる。


「いつもあなたは私を驚かすな、マーガレット」
「秘書の方から今夜はこちらにお帰りになると伺いましたの」
「なるほど、そういうわけか」
大石は苦笑いをしてマーガレットの鼻の頭に軽くキスした。
「ばあや達が目を回すから愛情表現はこの程度で勘弁してほしい。それと失礼して風呂を使わせてもらうよ。そのあと食事にしよう」
大石は振り返ると多喜に手にした帽子を渡して言った。
「先に風呂にする。食事は奥様の分も頼む」
「あの、和食でもよろしいのでございますか?」
「もちろん。普段どおりの献立でいいよ」


大石が湯に浸かっていると脱衣所から女中が遠慮がちに声をかけてきた。
「あの、だんな様。着替えのお召物は何をご用意すればよろしいのでしょう?」
「普段どおりでいい」
「着物でよろしいので?」
「そうだ」
……まったく。この家でまでそんなに気を使っていられるか。


大石は涼しい顔で着物に帯で現れた。
「待たせたね。食事にしようか」
マーガレットは少し驚いたような顔で大石を見た。
「ああ、こういう格好ははじめて見せるな。嫌かな?」
「いいえ、素敵よ」
マーガレットは目元をほんのりと染めておっとりと微笑む。
別人のような大石にどぎまぎしてしまう。
和服の襟のあわせからのぞく喉元から胸へのなめらかな逞しい褐色の肌……
今のマーガレットはその肌の香りも手触りも知っているだけに、よけい目のやり場に困る。
「お夕食をお運びしてもよろしゅうございますか?」
「ああ、頼む」
女中とばあやがお膳を座敷に運んできた。
「さて、畳に座って食事できるかな? 椅子のある部屋に替えようか?」
「いいえ、これで平気です」
マーガレットは先ほどから座布団に横座りをしている。
「だんな様、奥様のお箸はどういたしましょう? ナイフとフォークを用意してまいりましたが」
「まあ一度、箸もご経験願うさ」
大石は笑って多喜に返事する。
「そうでございますか……」
ばあやは小首をかしげながらもご飯をよそい膳に乗せた。
「マーガレット、箸は使えるかな?」
「やってみますわ」
マーガレットはけなげに答え、見よう見まねで箸を握る。
彼女の悪戦苦闘をにこにこ見ながら大石は膳部の料理に箸をつけている。
「難しいか?」
「……難しいですわ」
食器をガチャガチャいわせても、おかずを取り落としても、万事優雅なマーガレットなのでいっこうに見苦しくない。
むしろその様子が愛らしくさえあった。
大石には彼女の困った様子がかわいくてたまらないらしい。
「ナイフとフォークを用意しようか」
「いいえ、けっこうですわ」
「あいかわらず負けず嫌いだな」
「いいえ、コツがわかってきましたの」
「箸の使い方の特訓はまた今度にしよう。とりあえず今日は料理が冷めてしまうからね」
大石は笑いながらばあやにナイフとフォークを出すように合図した。


姿見の前に腰掛けて白い寝間着に着替えたマーガレットが髪を多喜に櫛ですいてもらっている。
やわらかい金髪をリボンで後ろに束ねて多喜は一礼して部屋を下がる。
「ほぅ、これはこれは」
大石が廊下からのぞいて低い嘆声をあげ、くすくす笑った。
「奥様は上背がおありなので女物ではお丈が短くて……といってだんな様のお寝間では大きすぎて……そんなにお笑いになっては奥様がお気を悪くなされます。たいがいになさいませ」
多喜は笑う大石を咎めた。
「やはりどうにも似合わないな……いや、ご苦労」
「おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ」
大石は既に寝間着に着替えている。
初夏といえども夜はまだ少し肌寒い。
大石は座敷に入り障子を閉めた。
奥の続き座敷には布団が艶めかしく並べて敷いてある。


「今日はずっと私を見てお笑いでしたわね、大石さま」
「あなたがあんまりかわいかったからさ」
「……本当はおひとりでいたかったのでしょう? 今夜は……」
「……そう思っていたがあなたが来てくれれば別だ。ところで布団の寝心地は? 眠れそうか?」
「布団より寝間着がだめだわ。前がはだけてしまいそうで落ち着かないの」
「脱いで寝たらいいさ」
そう言うなり手早く布団の中のマーガレットを自分のほうに抱き寄せた。
腕の中の彼女からはいつものバラの香りではなく大石と同じ石鹸の匂いがした。
……たまにはこういうのも悪くない。
「……明かりは消したほうがいいんだな?」
大石はそのままマーガレットの返事を聞かずに枕もとの明かりを消した……。