◆指輪 


「今日はお別れのご挨拶に参りました。旭日艦隊は近々船団護衛の任に就き大西洋へ向かいます」
マーガレットは大石の言葉に目の前が暗くなった。
……やっとお顔を見られたと思えばお別れだなんて。
「旭日艦隊は英国を見捨ててしまうのですか?」
女王の声が微かに震える。
「いいえ、そうではありません。我々の任務はあくまで英国支援です。どうかそんなふうにはお取りになりませんよう」
大石は慌てて白手袋の手を上げると弁明した。
「アメリカ海軍が我々の代わりに英国近海の守りにつくことになっています」
「アメリカが……」
女王は片手で顔を覆い落胆した様子でため息をついた。
同盟国のアメリカは日米戦争にかまけて英国を見捨てた前歴がある。
旭日艦隊の助けがなければとっくに英国は独軍の占領するところになっていただろう。
「大石提督、船団護衛の期間はいかほどですか?」
「それはまだなんとも……」
「未定なのですか? それとも機密なのですか?」
女王は人払いをすると大石の答えを促した。
「とりあえず二ヶ月は帰れないと思います。もっと長期に及ぶかもしれません。戦局によっては別の任務が入るかもしれません」
女王は大石の言葉の途中で椅子から立ち上がると彼に背を向け窓のそばに立った。
「……もう逢えないのですか?」
女王の声は硬かった。
白い指がカーテンを握っている。
「……しばらくはお逢いできません」
大石が静かに答える。
「ですから今日お別れに来たのですよ」
「いやです!」
女王は押し殺した小さな声で鋭く言った。
……これは泣かれてしまうな。
泣かれるのは辛いが、このまま立ち去るのは寂しすぎる。
大石は窓際の女王に歩み寄った。
「……陛下……マーガレット」
背後に立ち、静かに呼びかけてもマーガレットは返事もしない。
「待っていてくれますね?」
「……」
「マーガレット……」
「……お別れなんていやです」
マーガレットが必死に涙をこらえているのが大石にもわかる。
大石はカーテンを握り締めている彼女の手に自分の手を重ねた。
「私を信じて待っていてくれますね?」
物静かな大石の言葉がマーガレットの心にしみる。
大石の手の温かさが彼女の意地を見る見る溶かしてしまう。
たまらずにマーガレットが振り返った。
青い瞳から見る間に涙が溢れて頬を伝う。
「……またあなたは泣く……」
困り果てたように大石がつぶやき白手袋の指で頬の涙をぬぐう。
「こんなことでは心配であなたをおいていけない」
マーガレットの柔らかな頬をひと撫ですると、大石はそっと彼女を腕に抱いた。
マーガレットに泣かれるのは辛かった。
今はまだ打つ手がないとわかってはいても、彼女の涙の原因が自分にあると思うとやりきれない。
今日はまだこうしてそばにいて彼女を慰めてやれるからいいが、この先彼女はひとりになる。
……あなたをひとりで泣かせたくないのだが。


「あなたが心配です。気弱になってしまったあなたが……」
大石は腕の中の女王に静かに話しかけた。
「どうか寂しくても我慢してください。泣かずに元気で待っていると約束してください」
大石はマーガレットの髪に唇をつけた。
バラの香りがする。
「私は必ず戻ってきます。……あなたを絶対に諦めません。だからもう少し待っていてください」
マーガレットは紺の軍服の胸に顔をうずめた。
大石の心を疑う気持ちは微塵もない。
ただ逢えなくなるのが、遠く離れ離れになるのが辛かった。
そしていつまた逢えると約束も出来ないとなると耐えられなかった。
「どうしようもないのはわかっているわ」
顔をうずめたままのつぶやきはくぐもってよく聞き取れなかった。
「それじゃ聞こえません」
大石は困ったように微笑むと彼女の顔を胸元から離して上向けた。
「なんですって?」
マーガレットの涙で滲んでぼやけた視界に大石の顔だけが映る。
「……キスして」
また新しい涙が湧き出てくる。
大石が眉を曇らせた。
「もういい加減に泣きやみなさい」
「……」
「こんな聞き分けのない子供にはキスなんてできないな……」
そう言いながら彼はハンカチを出してマーガレットの涙を優しく拭いてやった。
「わかっていて私を困らしているんですね? あなたという人は。どうすれば私は安心して大西洋に行けるんだろう?」
大石はマーガレットの小さな瓜実顔に手を添えて上向かしたまま目で笑ってみせた。
「私も別れが辛いのに……」
その理知的な瞳に苦悩の色がよぎったのをマーガレットは見逃さなかった。
彼女の悲しげな目が訴えるように大石を射る。
唇が切なげにわななく。
大石から拭ったように表情が消えた。
無表情のまま大石は静かにマーガレットに顔を寄せ唇を合わせた。
唇をそっと重ねただけの慎み深い口づけだった。
大石は彼女から唇を離すと彼女の手をとった。
そして代わりにその白い柔らかな手に唇を押し当てた。
マーガレットは大石の行動に戸惑った。
……なぜ?
大石の目が熱く彼女の目をとらえた。
一瞬、彼の奔流のような激情が瞳をよぎった。
ふっと不穏な瞳の光を消すと彼は目を伏せた。
「今うっかりあなたにキスなんかしたら自分を抑えられそうにないですからね……あなたに泣かれるとどうも調子が狂う……」
再びマーガレットに向けられた笑顔はもうすっかりいつもの快活な大石だった。
「さあ、ふたりとも後の予定のある身です。お別れもできたし私はこれで失礼します」
大石はマーガレットの手を離した。
「待って。これを……」
マーガレットは彼が離した右手から指輪をはずした。
「せめてこの指輪をお持ちください。私と思って……」
小さな指輪を大石の白手袋の手のひらに乗せて彼女は懇願した。
「母の形見の指輪です」
大石は手のひらの由緒ありげな銀の指輪をじっと見つめた。
「そんな大切なものを……」
マーガレットは大石をひたむきなまなざしで見上げた。
「いつの日か大石さまが私を妻にしてくださるとき……大石さまの手から私の指にお返しください」
大石はマーガレットのまなざしに頷くと指輪を手のひらに握り締めた。
「そういうことならお預かりしましょう。あなたの心と思って大切にいたします」
うっすらと大石の瞳が潤んでいた。
大石は一礼すると、謁見室を後にした。
大切な銀の指輪をしっかりと手の中にして……。