◆前世大石

前世の大石さんはどんな人だったのでしょう?
海底大和の夢から覚めたシーンでは
「ああ、前世の俺もいたな……」
大石さんはこうつぶやいて、前世では大和特攻で戦死したようなことを仄めかしています。
夢の中の戦艦大和の艦橋には、白い第二種軍装に身を包んだ前世の大石さんが佇んでいました……四月に決行された大和特攻に夏服とは妙ですが、そこはそれ夢の光景ということで。
さて、夏服をよーく見ますと、肩章の桜の数がシルエットでかろうじて判別できます。
……桜の数は二つ。
OVAの画面を信じるならば、前世大石さんの階級は中尉か中佐か中将です。
 1)大和特攻で戦死
 2)階級は中尉か中佐か中将
もし中将だったら、前世大石さんは伊藤整一司令長官その人だということになります。
――が、温厚円満な人柄で知られる伊藤さんと、やんちゃで自信家な大石さんとではイメージ的にかなりかけ離れています。
やかんは篤実な紳士だった伊藤さんを敬愛しているのですが、大石さんのモデルが伊藤長官だとはちょっと考えられないですね。

ところで前世と後世、生年は同じなんでしょうか?
高野総長は日露戦争では前世でも後世でも候補生として《日進》に乗艦していた、とのことなので、五十六さんに関しては生年は同じと考えていいでしょう。
大石さんも前世と後世で生年が同じだと仮定すると……戦艦大和が沖縄特攻に出撃した昭和20年に、大石さんはどう若く見積もっても中尉の年代ではありません。
もちろん、前世大石さんが四等水兵からの叩き上げの特務中尉だったなんていう可能性も、あることはありますが……。
普通に考えて肩章の桜二つは中佐と考えるのが一番自然だと思われます。

もうひとつのポイントは、夢のシーンの大石さんは参謀職緒をつけてなかったということ。
つまり前世大石中佐は第二艦隊司令部の幕僚ではなく、戦艦大和の乗組員であります。
大和戦死者名簿の該当者は
内務長 林紫郎中佐
通信長 山口博中佐
航海長 茂木史郎中佐
――の三名となります。
このうちの誰かが大石さんの前世(のモデル)なのかもしれません。

※大和戦死者名簿は 『慟哭の海』能村次郎著/読売新聞社 を参照しました。
※※原作には前世大石さんは息子をガダルカナルで失った、という記述があります。
戦死した息子がいるとしたら、40才前後の中佐では年齢的に無理があります。
なにしろ五年目大佐の有賀艦長でやっと47歳なのです。
階級を上げると該当者がおらず、階級を下げると若すぎる――ここはひとつ“戦死した息子”という原作設定は横にいったん置いた上で
「前世と後世では人によっては生年が違う」
と考えておくしかなさそうです。


「大石」という姓にこだわってモデルになりそうな人を士官総覧で探してみると、昭和11〜13年の連合艦隊司令部に大石保(おおいし・たもつ)という参謀がいらっしゃいました。
 大石保(海兵48期)……真珠湾・ミッドウェー作戦の時の第一航空艦隊先任参謀
しかし、この大石さんは戦艦大和に関係なく、戦死もされていません。

また海兵54期に大石宗次という方がいらっしゃいます。
ですがこの大石さんは戦時中は欧州の駐在武官でした。 (下線部訂正09/6/19)
ちなみに夫人は名参謀秋山真之の娘で、おふたりの間に生まれた長女が民主党の大石尚子衆院議員です。
……大石長官の名前は忠臣蔵の「大石内蔵助良雄」をつづめたものなのは間違いないでしょうから、大石姓での詮索はあまり意味がありませんね。

海軍大学校卒業後、フランスに駐在。
スペイン大使館付海軍武官 (在任期間 昭和17年5月5日-18年9月10日)
ポルトガル大使館付海軍武官 (在任期間 昭和18年9月10日-19年6月5日)
 『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編/東京大学出版会 を参照しました。


  *付記 伊藤長官のこと
伊藤整一海軍中将、海兵三十九期、福岡県柳川出身。
性格は温厚で円満、ひどく無口で慎み深い、穏やかな笑みを絶やさない紳士だったといいます。
彼は太平洋戦争の始まる二ヶ月前、少将で軍令部次長に抜擢されました。
少将でこの要職に就いたのは、海軍の七十余年の歴史の中で伊藤さんともうひとりだけです。
そのぐらい伊藤少将は海軍内で傑出した人材でありました。
誰もが認める円満な人格者……柔軟な思考を持つ常識人……。
しかし時代は飛行機の出現と発展により、大きく変わりつつありました。
従来の艦隊決戦が不要になるのではないか――そんな兵術思想の大転換が予想される時期でありました。
「これからの海軍はこうだ!」
アクが強かろうが、嫌われ者であろうが、日本海軍を力強く新しい方向に引っ張っていく人物が、軍令部のトップには必要でした。
そこへ軍令部勤務経験のない、飛行機にまったく無縁の伊藤少将が、その円満な人柄と明晰な頭脳を見込まれて、軍令部次長の席に就けられたのであります。
伊藤次長は、ゴタゴタと揉める海軍内部や陸軍との軋轢を調整し収めながら、三年半の長きにわたり次長の重職を誠実に担い続けました。
激動期でありながら伊藤次長に求められたのはその人格による調整力。
調整ということなら、伊藤次長はまことに良くその務めを果たしました。
しかしながら彼はあくまで調整役であって、自分からぐんぐん日本海軍を新しい方向へ引っ張っていく指導者には成り得ませんでした。
未経験である軍令部を率いるにあたって、謙虚な彼はひたすら周囲の意見を吸い上げることによって、柔軟に対処して行こうとしたのでした。

山本五十六長官の真珠湾奇襲作戦には、軍令部は最後まで危険すぎると反対していました。
伊藤次長もリスクの高いこの作戦に批判的な考えを持っていたのですが
「この作戦を認めないのなら辞職する」
という山本長官の恫喝にあい、軍令部内の反対意見を押さえる側に回らざるを得ませんでした。
その真珠湾作戦を成功させた連合艦隊司令部の発言力は俄然強まり、ますます軍令部の意見を軽視するようになりました。
伊藤次官は開戦後も連合艦隊司令部の無茶な要望を聞き入れ、苦心して各方面と調整を続けました。
これをいいことにした山本長官の幕僚たちは次から次へと自分たちの都合のいい要求をつきつけ、間に立った伊藤次長もさすがに渋い顔をしだしたころ……ミッドウェー海戦で日本は大敗を喫します。
そして山本長官は覚悟の自殺ではないかと取り沙汰されたぐらい無防備で粗雑な前線視察にでていったのでした。
――長官機、撃墜さる。
山本長官を失い、マリアナ沖で惨敗し、レイテ沖で滅び――帝国海軍はもはや特攻作戦に頼る有様となっていました。
そんなどうしようもなくなった戦争末期の昭和十九年十二月、伊藤中将は第二艦隊司令長官に転出いたします。
旗艦は「大和」……。
伊藤中将は軍令部次官当時から、特攻作戦には強く反対していました。
その彼自身が沖縄特攻に五千人もの部下を率いて臨まなくてはならなかったとは、なんという皮肉な話でしょうか。

昭和二十年四月六日、特攻艦隊、徳山沖を出撃。
翌七日昼過ぎ、敵機来襲。
死闘二時間、左舷に魚雷が集中して命中した大和に、もはや避けようのない最期の時が迫っていました。
「もうこの辺でよいと思います」
「……そうか、残念だったな」
大きく傾いた艦橋で、森下参謀長の言葉にそう静かに答えると、伊藤長官は艦橋をひとり下りていきました。
手にしたピストルで自決したのか、大和の最期をしっかりと見届けようとしたのか……。
伊藤整一海軍大将(四月七日付けで一階級特進)、享年54歳。

参考図書
『提督伊藤整一の生涯』吉田満著/文芸春秋
『作戦参謀とは何か』吉田俊雄著/光人社