◆青い闇


舷窓から夜明けの薄青い空が見える。
部屋の中は物の輪郭がわかる程度の青い闇に沈んでいる。
今は夜明けなのか?
いや、今は昼……夜明けの状態が数時間続いてまた夜に戻る不思議な季節。
長い眠りについた真冬のアイスランド。
前原はベッドに寝転がったまま、舷窓に切り取られた夜明け空を眺めている。
時が移っても朝の来ない、青い闇の世界。
(……まるで黄泉の国へ来たようだ)
異世界にひとりきりにされたような、もの悲しい静寂が疲れた神経に心地よい。
ひっそりとした薄闇が彼を優しく癒してくれそうな気がする。
やがて前原は青い闇に溶け込むように眠りへと落ちていった。


それからどれほどの時間が経ったのか……ドアが音もなく開かれた。
艦内通路の白熱灯の照明が一瞬、部屋の中の青い闇を払った。
しかしすぐにドアは閉ざされ部屋は元の青い闇に返った。
闖入者は薄闇に目を慣らすように身動きせず部屋の入り口に立っていた。
やがて目が慣れたのか、彼は一歩また一歩、部屋の奥へと進んでいった。


前原はふと夢から醒めた。
さっきと変わらず部屋の中には青い闇が満ちている。
……何者かがいる!
前原は危険な気配を感じてかっと目を見開いた。
緊張が彼の全身に走る。
何者かが闇に同化するかのように舷窓の脇の壁にもたれているのが目に入った。
前原はベッドから跳ね起きると毛布を片手に防御の構えをとった。
「……俺だよ」
壁に背もたれした大柄な男のシルエットが口をきいた。
少し身動きした男の横顔に舷窓からの淡い光があたった。
「大石長官……!」
前原が呆然とつぶやく。
大石はゆらりともたれていた壁から身を起こした。
大石の目の白い部分が淡い光をうけてチカリと光った。
「どうなさったのです……」
前原の手から毛布が滑り落ちた。
緊張が解け、ほっとすると冷や汗がどっと全身に噴きだした。
心臓は早鐘のように打ち、手先は冷たく感覚が遠い。
床にしゃがみこみたくなるのに耐えて前原はかろうじて立っていた。
「……ひどいなあ……てっきり敵だと……」
喉が渇き、舌ももつれる。
「……おどかしたようだな」
「あたりまえです……! 人の寝込みを……」
肩で息をする前原を大石はじっと見つめていた。
やはり前原は疲れがたまっているようだ。
艦を降りても神経が高ぶったままなのだろう。
今のショックからなかなか立ち直れないでいる前原を大石はどう思ったのか、口元を少しゆがめると苦く笑った。


青い夜明けの光は徐々にその力を失って、いまや青い黄昏の色に変わったようだ。
いつの間にか空から色彩が失われているのがわかる。
もしかしたら雲が厚くなったのかもしれない。
舷窓を背に立つ大石の輪郭も左半分は濃くなった闇に紛れている。
その姿は非現実の世界を前原に思わせた。
黄泉の国を、そして黄泉の国から来た死びとを……。
前原は言い知れぬ恐怖を一個の青い影となった大石に感じた。
恐怖と、そして甘美な誘惑を。
闇に立つ大石の目が幽かな青い光を反射している。
闇に紛れてはいても、大石が薄く笑っているのがわかる。
……残忍な微笑だ。
前原は魔物に魅入られた生贄のようだった。
ふらふらと前原は自分から彼の元に近づいていった。


「大い……し……」
前原は掠れた声で大石の名を呼び、彼の腕の中に倒れこんだ。
強い腕が前原を抱きしめる。
強引な唇が彼の口を塞ぐ。
こうなることはわかっていた。
こうなることを彼は恐れ望んでいた。
前原は大石の髪に指を絡め、彼の頭を引き寄せる。
もっと深いくちづけが交わせるように……。
いつしか青い闇に二人の影は溶け込んでいった。


前原の肩を優しく押して、大石は彼をベッドに横たわらせた。
前原は大石が恐ろしかった。
優しい愛撫と激しい行為。
快楽と苦痛。
しかしそれはどちらも彼が待ち望んでいたことだった。
大石になら……大石のためなら……。
大石が恐ろしいのは、大石には彼の心が無防備になるからだ。
たとえどんな仕打ちを受けようとも、彼は大石を拒めない。
「大石、教官……!」
長く秘めた想いをこめて、前原は大石の背を強く抱いた……。


ノックの音に前原は目覚めた。
はっとして彼は自分の状態を確かめた。
裸ではない。
ズボンとシャツを身に着けて寝ている。
部屋は薄暗い。
青い闇のままだ。
ノックが繰り返される。
前原は戸惑った。
記憶がはっきりとしない。
(いったい俺は……?)
返事がないことに焦れたのか、ドアが開けられた。
「おい、前原。具合でも悪いのか?」
心配そうに大石が顔を覗かせた。
「……暗いなあ、寝ていたのか? 灯りをつけるぞ……」
部屋に電灯がともされ、青い闇は追い払われた。
前原はベッドに半身を起こしたまま呆然としていた。
「なんだその顔は。どうした、気分が悪いのか?」
大石がつかつかとベッドに近づいてきた。
心配そうにまじまじと前原の顔を見つめている。
前原はまだわけがわからなかった。
「大石……長官。昨日、いや今朝だったか? あなたはこの部屋に入られましたか?」
口ごもり考えながら前原は大石に問いただした。
「おまえ、大丈夫か? 寝ぼけているだけか? 食欲がないといって昼飯も食わずに部屋に引き取ったんじゃないか。俺は心配で今はじめて様子を見に来たんだぞ」
大石の表情と口調は真剣だった。
「今日はいつ……いや、今何時です?」
「一四三○だ、おまえが部屋に引き取ってから三時間も経っていないぞ?」
大石の答えに前原は頭を抱えた。
「ああ、よかった……夢だったんだ……」
そう言いながらも生々しい感覚の記憶が前原の身体に甦ってくる。
前原は顔を上げて大石を見ることが出来なかった。
「……よっぽど疲れているんだな。よし、わかった。今日は一日寝ていろ。誰も邪魔しないよう俺から皆に言っておく」
大石は決然と言い放った。
「さ、横になれ」
大石は前原の肩に手をかけて彼をベッドに戻そうとした。
それは夢の中での大石の手とまるっきり同じ感触だった。
思わず前原は大石の手を掴んだ。
「大石教官!」
え? というように大石が前原の顔を見た。
「おいおい、それは二十五年も前のことだろうが。寝ぼけるのもいいが、あまり心配させんでくれ」
大石は気軽に前原の頭をポンポンと叩いた。
「すみません。寝ぼけてますね……」
前原はおとなしくベッドに横になった。
「うん。どういうわけだろうな、おまえときたら」
大石が優しく微笑む。
「今日一日は仕事のことを忘れてひたすら寝ろ。いいな?」
「……はい」
前原は素直に頷いた。
「よし、俺はもう行くぞ、いいな?」
「ご心配かけました」


大石は部屋を出るときに灯りを消していった。
部屋はまた薄闇に沈む。
(アイスランドには精霊がいるそうだ……人の望みを夢の中で叶えるという……)
前原は自嘲するように薄く笑った。
(俺の願望とは……そうなのか? よけいなお世話だッ)
前原は両手で顔を覆った。
彼の目尻を一筋の涙が伝った……。