◆朝餉(あさげ)


トントントン……。
軽やかな包丁の音が台所から響く。
ああ、母さんがおみおつけの実を切る音だ……。
まだ薄暗い冬の早朝。
磯貝は冷え切った空気に思わず深く布団に潜り込んだ。
布団の温かみが心地よい。
こんな寒い朝は、できるだけぐずぐすしていたい。
もうじき茶の間でカチャカチャと茶碗を並べる音がするだろう。
そして
「正久、もう起きなさいよー」
そんな姉の声がするはずだ……。
うん、もう起きるよ姉さん、あと五分だけ……。
磯貝の目がパチッと開いた。
そんなはずがない。
ここは金沢のうちじゃない。
ここは……。


「おはようございます……」
寝ぼけ眼の磯貝が台所をのぞいた。
「あ……」
磯貝は腕まくりをして流しの前に立つ原と、湯気を立てている鍋を交互に見やる。
「あの、参謀長が作られたんですか?」
「……今日は通いの小母さんが休みじゃないか」
ちらりと寝起きの磯貝に一瞥をくれて、原はまな板の上の菜を器に移す。
「でも、参謀長が……みんな?」
磯貝は目をぱちくりとさせて、原の手元を斜め後からのぞいた。
「ああ、俺が用意したんだ。おまえがぐうすか寝ている間にな」
原はざっとまな板を水で流し、今度は沸騰した鍋の蓋を取る。
「す、すみません、その、おっしゃってくだされば私が……」
「おまえに料理ができるわけないだろ」
もう振り向きもせず、原は低くそう決め付けた。
「参謀長が料理されるなんて知りませんでした」
「今日作ったのが初めてだけどな」
「え……大丈夫なんですか?」
「ふん、どうだかわからん。食ってから文句を言え」
振り返った原の眉間の辺りに不機嫌そうな影が漂いだしていたので、磯貝は思わず逃げ腰になった。
「そ、そんな、ありがたくいただきます」
そう言って台所から退却しかけた磯貝の背に原の声が降ってくる――
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと顔を洗ってこい!」
「は、はいっ!」
磯貝は背中で返事をすると、冷え切った廊下をパタパタと走り洗面所の前に立った。
彼は寝起きの顔をざぶざぶと冷たい水で洗う……。


磯貝の洗面の音を聞きながら、原は茶の間の卓をふきんで拭いて朝餉の準備を整えだした。
卓の上には消しゴムのかすがパラパラと残っており、原の顔をしかめさせた。
そういえば昨夜、磯貝がここで帳面を広げて、ゴソゴソと遅くまで何か書き物をしていたのを原は思い出す。
見れば鉛筆の削りかすも畳に少量こぼれている。
……しようがないヤツ。
原は削りかすをつまみ上げた。
それでも磯貝が太極計画のショックから立ち直りつつあるのが原にはうれしい。
沈み込んでばかりいた潜伏当初からすれば、だいぶ元気になってきた。
……食事も摂るようになってくれたしな。
わざわざ原が早起きして食事を作ってやったのも、磯貝にちゃんと食べて欲しいからだ。
原はいそいそと温かな湯気を立てている鍋を台所から運ぶ。
きちんと盛り付けた皿と小鉢を食卓に整然と並べる。
並べながら、調理が初めてにしては手際もよかったし上出来だと原は自分の仕事に満足していた。


「か、からっ」
ん、味噌汁が辛かったか?
「いえ、ちょっとだけ辛いですけど、おいしいです」
湯があるから、薄めたらいいだろ。
「うわっ、お椀にドボドボ直接、そんな乱暴な……あー、こんどは薄いです」
うるさい! 自分で加減しろ!
「すみません……」
味に文句を付けられたとき、世の妻はこんな気分になるのだろうな、と原は自分も椀の味噌汁を啜ってみる。
たしかに少し塩辛いが、許容範囲じゃないかと原は思う。
……普通、飯を作ってもらったら、味付けに文句を言わないものだろう? 磯貝はおとなしいようで、そういう遠慮がない無神経なやつだ。
半分ほど味噌汁を飲んで、原は椀を置いた。
……わかったよ、次からはおまえ好みの薄味にしよう……次があればな。


磯貝は薄くなった味噌汁の椀を置くと、こぎれいに盛り付けられた小鉢を手に取った。
あ、ほうれんそうのおひたしだ。
花かつおまで、かけてある。
へえ……。
あ、切れているのは上だけだ。
長っ。
磯貝は切り損ないの菜を箸でつまみあげてしげしげと見た。
「なんだ、あてつけがましいヤツだな」
食卓の向こうから原が箸を止めて睨んでいた。
いえ、そういうわけでは。ほうれんそう、大好きです。
磯貝は慌てて菜を口に放り込んだ。
むぐむぐとほうれんそうを咀嚼しながら、磯貝は今度は目玉焼きの皿に箸をつける。
目玉焼きか……黄身が白くなるほど焼いてある。
できれば半熟気味のほうがおいしいのにな……おっと、参謀長が睨んでいる。
その、朝食はやっぱり目玉焼きですね。
磯貝は慌てて愛想笑いを浮かべた。
「ふん……」
あれ、どうして黄身だけ食べるんです?
「白身が焦げてしまったからな。おまえも無理して食べることないぞ」
もったいないなぁ。
私が食べてあげますよ。
磯貝はひょいと気軽に原の皿から、白身だけになった目玉焼きの残骸をつまみあげた。
「俺の食いさしだ、そんな、よせ」
なに言ってるんです、平気ですよ。
間接キスぐらいへっちゃら……あ。
「……ばか」


朝餉の卓が一気に気まずくなった。
ふたりとも、何を思い出したのか、卓をはさんで赤くなっている。
やがて、ふたりは残りのおかずを黙々と食べだした。
「ごちそうさま」
食べ終わった磯貝が茶碗と箸を置いて一礼した。
「ん……もういいのか」
「はい」
ちらっと目が合い、どちらからともなく照れくさそうな笑みを交わした。
「皿洗いは私がいたします」
「あたりまえだろ」
そう言いながらも、原は手早くかちゃかちゃと皿や茶碗を重ねて卓の上を片付けだす。
「それじゃ、お茶を淹れます」
原が流しに皿を運ぶ間に、磯貝はやかんをもう一度コンロにかけた。
一度沸騰させておいた湯は、すぐに沸いた。


湯飲みからゆっくりと湯気が立ち上る。
玄米茶の香ばしい香りだ。
朝の光が東向きの玄関から差し込んでくる。
スズメのさえずりが往来からさかんに聞こえてくる。
「洗濯もしなくちゃ」
磯貝がつぶやく。
「ああ、そういえば俺も洗濯物を溜めている」
「あ、ついでに洗っておきます。出しておいて下さい」
「いいよ、そんな」
「朝食を作っていただいたんですから、洗濯は私がいたします。遠慮せずに下着も」
「いや、いいよ」
「もういまさら恥ずかしがらなくったって……わわ」
磯貝がまた口を滑らした。
「おまえ……わざと言ってるのか?」
食卓越しに原が磯貝を睨んだ。
その秀麗な面持ちの目もとがほんのりと赤らんでいる。
「いえ、違います」
慌てて否定する磯貝の顔も赤い。
「ふん……」
ガサガサと新聞を広げると、原は磯貝に背を向けた。
磯貝はこっそりとばつが悪そうに席を立つと、台所の流しに立った。
セーターの腕をまくって皿洗いにかかる。


大柄な磯貝が流しの前に窮屈そうに屈んで、一心に茶碗を洗っている。
その後姿をいつの間に来たのか、原が柱にもたれるようにして、じっと見ていた。
カチャカチャと茶碗が洗い桶の中でぶつかる音が聞こえてくる。
二人分の食器など、洗う量はたかが知れてる。
それなのにモタモタと不慣れな様子で洗い物をする磯貝に、原はクスリと笑顔になった。
「手伝おうか?」
「あ、今終わったところですよ」
振り返ろうとした磯貝の身体を、原の両腕が背後から抱きしめた。
「わっ! な、なんです!?」
「……おまえが元気になってくれてうれしいよ……」
一瞬ぎゅっと抱きしめたと思ったら、原はすっと磯貝を放すとすたすたと台所を出て行った。
……な、なんなんだ……。
磯貝は心臓をドキドキさせてその場に突っ立っていた。
いつも唐突な原の愛情表現に磯貝は面食らってしまう。
……えーと、この場合……どうしたらいいんだろう? これってやっぱり、その……。
えーい! 当たって砕けろだ!
「あのっ! 参謀長っ!」
タオルで濡れた手をぬぐうと、磯貝はパタパタと原の後を追った。