◆悪夢


「……参謀長」
低い声が原を呼んでいる。
「参謀長……」
遠慮がちなこの声は……磯貝だな。
原は薄目を開けた。
いつものように艦内帽をかぶった磯貝が、大きな目で心配そうに原をのぞきこんでいた。
「ああ……なんだ?」
「お疲れでしたら、どうぞお部屋でお休みください」
「ん……」
夜戦艦橋のオレンジ色の照明が机上の図面を照らしている。
自分の椅子に深く腰掛けたまま、居眠りをしていたらしい。
頭がどうもはっきりしない……ひどく寝ぼけているのが自分でもわかった。
「もう夜間訓練も終了します。後の報告は私がいたします。ですから……」
磯貝が気遣いをこめて、耳元でそう囁く。
そうか、夜間訓練だったのか……何の?
原はぎくりとした。
何も思い出せない。
「どうなさったのです?」
磯貝が不審そうに原の顔をじっと見た。
「いや、なんでもない。あとどのくらいだ……訓練終了までは」
「は、ちょうどあと半時間です」
腕の時計にちらと目をやって、磯貝が低い声で答える。
フゥ、と原はため息をついた。
「大丈夫だ」
原はそう答えて再び目をつぶった。
混乱していることを悟られてはいけない。
思い出すんだ……早く。


「なんだ、具合でも悪いのか?」
この声は長官だ。
原はあわてて肘掛を掴み、椅子から立ち上がった。
「いえ、たいしたことは」
数歩先に立つ長官の大きな影が目に入る。
大石……長官?
大石の顔を見て、原の呼吸が止まった。
なんで、大石長官にあごひげがあるんだ?!


まじまじとその異形の長官の顔を原は見つめた。
夜戦艦橋は暗すぎる……。
声も顔かたちも大石長官のように思える。
だが、そのあごひげは?
「なんだ?」
ぼさぼさと無造作に伸ばしたその長いひげに手をやりながら、長官は首を傾げて微笑んで見せた。
「どうしたんだ、原君?」
片頬だけでくっと笑うしぐさも……似ているようでどこか違う。
混乱した原の脳裏にひとつの言葉がひらめいた。
……イイジマ……飯島祐輔……
なんだそりゃ?
誰の名前だ?
原の混乱は極限に達した。
ひどい船酔いになったような吐き気を感じ、原はとっさに口元を片手で押さえた。
吐き気が! 目が回る……! 
「失礼します、少し気分が」
そう言い置くと、原はよろめきながら夜戦艦橋を飛び出した。
暗い夜戦艦橋を出て、通常の灯火の下の通路に立つと、気分はだいぶましになった。
とりあえず自分の休憩室に行こう。
通路の冷たい鋼鉄の壁に手をついて身体を支えながら、原は一歩一歩前へ進んでいった。


原は這うようにしてラッタルを降りた。
あまり人の出入りのないひとつ下の階の通路は、いつもひっそりとして寂しい。
この区域には艦長・幕僚の休憩室と航海科の格納所がある。
少し向こうの従兵控室のドアが開いていて、中からカチャカチャと茶碗を片付けている音が聞こえてきた。
「編みかけのリリアンが私室にな……」
「カップを持つとき、小指を立てるのは気味悪いよなぁ」
「……おねェでなきゃ、いい艦長なんだがなぁ」
え……?
原の思考がまた一瞬止まった。
……おねェの艦長……?
そのとき、背後のドアのノブがガチャリと音を立てた。
原はゆっくりとこわごわと振り返る。
艦長休憩室のドアが開いたのだ。
「あら、参謀長……」
たしかに富森艦長の声だ。
ドアからは、しなを作った手が彼をさし招いている。
「寄ってお行きなさいな……」
声の主の姿が目に入る前に、原はきつく目をつぶった。
見るものか! ぜったいに見んぞ、俺は!
冷や汗を流しながら、原は固く固く目を閉じるのだった。