◆幕僚選び 〜続き
援英艦隊参謀長に原大佐内定の知らせを受けて、高野と大石は総長室でにんまりと笑いあっていた。
「まったく手段を選ばんやつだな、貴様は。ペテンぎりぎりの線だぞ」
「ご協力ありがとうございます、総長」
涼しい顔で大石が礼を言った。
「悪知恵の回ることだ、相変わらず。俺にまで片棒を担がせやがって」
口ではそんな悪態をついてみせるが、高野の目はさっきからずっと愉快そうに笑っていた。
人事慣例も部内序列も因循な悪習と考えている高野には、大石の人事謀略が痛快だったのだろう……あるいは進んで裏から手を回したのかもしれない。
「とにかく肝心カナメの参謀長は無事調達できたわけだ。さぁ、司令部人事で他に要望はないのか? あるなら腹蔵なく言っておけ。善処しよう」
「ありがとうございます……では、幕僚にはできるだけ若い人材を集めていただきたい」
「若手だな、わかった」
「それとご承知のように私は航空兵器については門外漢です。ぜひ専門家のアドバイスがほしい。ただ専門家といっても頭のガチガチな奴は困る……航空参謀にはとくに柔軟な思考の出来る男をお願いします」
「ふふ、航空畑なら俺に任せておけ。心当たりならいくらでもあるから、貴様の気に入ったやつを連れて行けばいい。そうだな、本人に会う前にまずは論文でも見てみるか?」
高野は副官を室内に呼び入れると、何事か用事を言いつけた。
――半時間後。
会議室の長机の上には、表紙を取った剥き出しのレポートが十数点きちんと並べられていた。
「それぞれ年度は違うが、これと見込んだ航空畑の若手有望株に、俺が課題を与えて提出させたレポートだ。どの男を選んでも立派に貴様の航空参謀が務まると思うが、まぁ参考にしろ」
大石は後ろに手を組んで、ゆっくりと歩きながら机上のレポートの列を見比べていた。
彼はそのうちの一冊に目を留め立ち止まった。
レポートの筆跡が際立って美しい。
伸び伸びとした大きな字で、けれんみがなく、とても素直な楷書体だ。
「これは?」
「ああ、この男は去年大学校を出たばかりだ。優等をとった」
「ふむ、恩賜組か……」
大石の危惧を察したのか、高野はニヤリと笑ってそのレポートを手にとると大石に渡した。
「いや、この男は点取り虫の秀才タイプじゃない。なんというか、人柄からしてユニークなタイプでな」
「それならひとつ拝見しましょうか……」
「ほう……」
一声発したきり、大石は熱心にレポートを読みふけっている。
鋭い目が文面を追って動いているが、その表情は消えたまま揺るぎもしない。
「……こいつはおもしろいな……」
やがて大石は顔を上げた。
その目が輝いている。
「ぜひ欲しい! 従来の概念に囚われない自由な発想がこいつにはある。それでいて奇を衒ったところがない。これは使えるぞ!」
「ふふふ、あいかわらず目の高いやつだ。俺が推薦しようとしていたやつを一発で引き当てたな。こいつは61期の磯貝正久少佐。この男も紺碧会の一員だ」
大石の選択に高野は満足そうな笑みを浮かべた。
「そうでしたか。念のため、一度本人に会わせてもらえますか?」
「もちろんだ! 磯貝少佐は今は航本技術部にいる。明日にでも引き合わせよう」
「はっよろしくお願いいたします」
レポートを手にしたまま、大石は明るい笑顔で頭を下げた。
春先の日差しが大きく西に傾いて、海軍省の赤レンガにくっきりと黄金色の陰影をつけている。
レポートによる航空参謀候補の選定を一応終えて、高野と大石は総長室に戻っていた。
「これでほぼ司令部人事のほうは片が付きそうだな」
「は、おかげさまで」
ふたりはほっこりと熱い茶を啜る……。
相変わらず静かな総長室ではあるが、退け時の近づいた庁舎内の空気のざわめきが、ドアの向こうから潮騒のように伝わってくる。
「日本武尊の公試はいつになりそうだ?」
高野がふと思いついたように顔を上げて大石に尋ねた。
「はい、呉からの連絡によりますと、今月中に予行運転を済まし来月中旬には公試にかかれそうです」
「そうか、いよいよ日本武尊が始動するな」
感慨深げに高野がつぶやく……海軍内の反対を押し切って着手した超戦艦日本武尊がついに大海に乗り出すのだ。
「艦長に富森大佐を頂けましたからね。艤装の段階からいろいろと研究してくれてまして、初航海にも不安はありません」
「操艦上手のあの男なら艦を任せて安心だろう? なにせ超戦艦だ。副長以下、航海、砲術、各科選りすぐりの面子を揃えてみた。……おい、他の艦隊から文句が出たくらい、腕利きを引き抜いてきとるんだ、ありがたく思え」
「はっ、ご高配感謝いたします」
「ハハハ、へそ曲がりの貴様がこの間からどうにも神妙なことだ。どうだ大石、これからひさしぶりに鍋でも。美味い店があるんだが、今夜は暇か?」
「暇もなにも私は独り者ですからね。喜んでお供しますよ」
「そうと決まれば今日はもう早仕舞いだ。さぁ支度しろ!」
高野にしては珍しい浮き立った言葉を受けて笑顔になりながらも、大石は胸が熱くなるのを感じた。
さっさと席を立って大石に背中を向けた高野の目に、たしかに光るものを認めたのだ――
――二週間後、呉。
鎮守府長官や公試委員との会合を終えて、大石は軍公用車の後部座席に身を深々と沈めていた。
呉に戻った大石は、最終的な調整のために関係各部と協議を何度も重ねていたが、それも今夜で無事終わった。
安堵感と、日本武尊のために自分がしてやれることは、もうさしあたって何もないという幾ばくかの寂寥感が、大石の胸の内をひたひたと湿していた。
先だっての東京行きで、援英艦隊の人事も当初の編制もすっかり出来上がっている。
ほんとうにこれであとは日本武尊の完成を待つばかりだ。
……会いたい。俺のすべてを賭けた超戦艦。
そんな気持ちが急に強く込み上げてきて、大石は思わず運転手に声を掛けた。
「すまんがそこで降ろしてくれ」
造機部庁舎の手前で車を止めさせると、大石はゆっくりと夜道に降り立った。
火照った身体に少し冷たい春の夜風が心地よい。
大石を置いて車は走り去り、物音が消えた夜道には錬鉄場の夜間作業の物音だけが風に乗ってかすかに響いてきていた。
いつの間にか五分咲きになった呉の桜を見上げながら、大石は浮き桟橋への坂道を下りた。
大石の靴音が夜の港にリズミカルにこだました。
頭を上げるとおぼろに霞んだ月が中天に懸かっている。
淡い月明かりを受けて工廠の高いレンガ塀が闇の中に長々と浮かび上がってみえた。
艤装工場の作業場を抜けると、急に視界が開けて浮き桟橋が正面に見えてくる。
そこには見るものを圧倒する日本武尊の小山のような巨体が横づけされていた。
その日本武尊に対峙するように、深夜の人気の無くなった岸壁にひとりたたずむ人影に大石は気がついた。
長身、痩躯、灰色の髪……富森大佐だった。
「なんだ、こんな夜中に何をしている……って俺も同じだな」
大石は黙って頭を下げた富森に苦笑いをしてみせた。
「……いい月夜ですからな」
大石が現れたことにさして不審そうな顔もせず、富森はそう静かに応じた。
「おぼろ月か、春だな」
大石は照れくさそうに月を仰いだ。
タポン、タポンと鈍い音をたてて波が岸壁に打ち寄せている。
富森は何も言わず、そばにじっと控えていた。
今宵の大石の感傷的な心情が彼にはよくわかるのだろう。
「……いよいよだな」
しばらくして大石が口を開き沈黙を破った。
「ええ」
「予行運転では存分に新機能を試してみてくれ」
「はい……まずはダッシュと半潜水ですな。まったく夢のような戦艦です」
「そう、夢だ。日本武尊は俺の生涯のすべてを賭けた夢の超戦艦だ。大和で死んだ俺がこの日本武尊で大西洋の波濤を越えるのか……」
巨艦を見上げたまま、大石は半ば独り言のように低くつぶやいた。
「富森さん」
大石は富森のほうに向き直ると口調をやや改めた。
「あなたとまた一緒に出撃できる……今度はぜひ生還したいですな」
「ええ」
富森は深くうなずき返した。
いつの間にか月にはぼんやりと傘がかかっていた。
もやの出てきた海面に黒々としたシルエットを見せる、ずんぐりした船体と巨大な雛壇式艦橋。
ふたりは黙ったまま、浮き桟橋に繋留された巨艦を見つめていた。
ふたりの目にはありありと洋上を進む日本武尊の雄姿が浮かんでいた。
美しいカーブを持つ艦首で真っ青な大西洋の波を割って進む堂々とした姿が。
砲煙の中心で荒々しく咆哮する51サンチ砲が。
鉄の臭いと潮の香りの入り混じる呉工廠の埠頭から、ふたりは日本武尊を飽かず眺めるのだった……。
※参考図書
「戦艦大和誕生(上下)」 前間孝則著/講談社
「続・鳶色の襟章」 堀元美著/原書房