◆CALLING TODAY


  我に来よと主は今 優しく呼び給う
  などて愛の光を 避けてさまよう
  帰れや、我が家に 帰れや、と主は今呼び給う
                     賛美歌517番「我に来よと主は今」


前原はふと足を止めた。
教会の白いペンキを塗った柵に手を置き、教会から聞こえてくるコーラスに彼は耳を傾けた。
開け放たれた教会のドアから、少し頼りない子供たちの合唱が流れてくる。
青い芝生はきれいに刈り込まれ、庭のパーゴラにはノウゼンカズラの花が夏の日差しを受けて輝いていた。
なぜだか子供たちの歌うその賛美歌が前原の心に染みた。


ショルダーバッグを提げ、小脇に画帳を抱えたまま前原は柵の外にたたずんでいた。
彼は今、画家富嶽太郎としてこの異国の地を旅している途中だった。
じりじりと照りつける夏の日差しに、乾ききった泥道が白く照り映えている。
乾いた熱風が白い土埃を巻き上げ、じっとりと汗ばむ腕にはうるさく小蝿がまとわりついてくる。
そんな道すがら、風に乗ってきた音楽は前原の耳に涼しく感じられた。
鄙びたオルガンの音色と子供たちの歌声は、緑濃い芝生の平屋の建物から聞こえてきた。
元は普通の民家なのだろう、屋根に取り付けられた十字架の飾りで、辛うじてそこが教会だと判別できた。
牧師がまめな人物なのか、柵もパーゴラも白いペンキできれいに塗られていて清々しかった。
庭の手入れも行き届いており、小さな花壇には丹精されたダリアの花が暑さに負けず咲いていた。


牧師の若い妻は庭仕事の手を止めて、柵の外に立ち止まった若い東洋人に目をやった。
質素だがこざっぱりした身なりで、すらりとした様子のいい男だ。
東洋人だが明らかに現地の人間ではない。
スケッチブックを手にしているところをみると画家なのだろうか?
移植こてを地面に置くと、彼女は蕾の上がってきたカンナの茂みの陰から立ち上がった。
青年は彼女に気づいて、軽く会釈をした。
目元の涼やかな優しげな青年だった。
「素敵なコーラスですね」
話しかける声もおっとりとしていて、とても感じがよかった。
「土曜の午後に毎週練習していますのよ。よろしかったら中でお聞き下さいな」
牧師夫人は白い柵の掛け金を外し、にっこりと微笑んで前原を招いた。
「ありがとう。では少しお邪魔します」
前原は招かれるままに柵の中に入った。
「ご旅行中?」
芝生の中を通ってふたりは教会の開け放たれた入り口に進む。
「ええ。取材旅行の帰り道です」
前原は答え、教会の内部に目をやった。
簡素な長椅子の信者席がいくつか連なり、祭壇の横に説教台と黒いオルガンが置いてある。
オルガンの前には牧師が座り、十数人の子供たちがその横のひな壇に二列になって並んでいた。
教会内に一歩足を踏み入れると、屋内はひんやりとして汗が引くような心地よさだった。
聖歌隊の子供たちの目がいっせいに前原に注がれた。
「外でコーラスを聞いてらしたのよ」
夫人がにこやかに説明する。
「やあそれは嬉しいなあ。どうぞゆっくりしていってください」
伴奏のオルガンを弾いていた牧師が振り返り、人のよさそうな笑顔を前原に向けた。
「お邪魔します」
前原も笑みを返す。
「どうぞおかけになって。冷たいものでもお持ちしますわ」
「あ、どうかお構いなく」
前原が慌てて断ったが、ニコリと笑って夫人は室内に消えた。
「さあ、今度は高音部をはっきりと発声するように注意して、もう一度!」
牧師の弾くオルガンの懐かしい音色が再びホールに響く。
子供たちの視線が譜面にまた戻された。


  疲れ果てし旅人 重荷を下ろして
  来たり憩え、我が主の 愛のみもとに
  帰れや、我が家に 帰れや、と主は今呼び給う

……ああ、たしかに疲れているのかもしれない。
硬い木の長椅子の端に腰を下ろし、前原は視線をぼんやりと宙に浮かす。
後世日本、紺碧艦隊……それは前原にとって、降ろすことの出来ない重荷と云える。
生きながら幽霊になる道を選んだことを後悔はしていないが、ときどき虚しい気持ちに襲われる。
軍以外には帰るべき場所も帰りを待ってくれる人もいない日本人画家富嶽太郎。
……寂しい。俺には任務以外に何もないのか。
普段は忙しさに紛れてはいても、ときおり心の隙間に忍び寄るメランコリー。
こんなときは、誰かに、なにかに無性に縋りたくなる……。
前原は正面の祭壇を見上げた。
眩しい陽光に慣れた目には奥まった祭壇が薄暗く感じられる。
祭壇の奥の壁に十字架が鈍く光っていた。
……神を否定はしないが、すべてを神に委ねられるような信仰は俺にはない。
前原の目には自嘲するような光が宿っていた。
……目に見えない神でなく、誰かの腕の中で安らぎたい。
誰かの?
誰の腕に?
前原は前の席の長椅子の背もたれに肘をつき、手を組み合わせて額をもたせかけた。
……あの人の腕を望むべくもないのなら、誰でもいい……そう思ってきた。
前原の唇が自虐的に歪んだ。
これまでにも捨て鉢な気分のまま関係を持ったこともある。
自堕落な一夜限りの愛欲に溺れたこともある。
……だが今は違う。ただ安らぎたい。すべてを受けとめてくれる優しく強い腕の中で。
オルガンの素朴な旋律に誘われるように、前原は静かに目を閉じた。
そして子供たちのやや不揃いな幼い歌声に彼は耳を澄ました。

  迷う子らの帰るを 主は今待ち給う
  罪も咎(とが)もあるまま 来たりひれ伏せ
  帰れや、我が家に 帰れや、と主は今呼び給う

罪なのか? 咎なのか?
求めてはならない愛を心に秘めることが罪なのか?
開戦前に会ったきりの恩師への秘めた想いが、前原の胸を切なく締め付ける。
……金輪際、打ち明けることが叶わなくても俺は耐えていくつもりだ。
ただ……ただ時折、無性に寂しくなるだけだ……。


……こんなとき、あなたがいてくれたら。
情深いあなたがやさしく抱いてくれたら。
なにも問わず、ただ黙って背を撫でてくれたあのやさしい腕。
叶わぬ恋の想いごと抱きとってくれたあなたに、もう一度寄りかかって甘えることが出来たなら。
過ぎ去った昔が懐かしい。
若かった自分も、アカシアの花の散るあの街も……。
帰れるものなら帰りたい……富森さん、あなたの腕に。

  Come,and no longer delay.
  Calling today,calling today,
  Jesus is calling, is tenderly calling today.

繰り返し歌われる素朴な賛美歌のメロディが前原の追憶と郷愁を誘う。
それはいつしか甘い癒しとなってゆっくりと彼の心を潤していった。


祈るように手を組み、頭を垂れた前原の姿は神に真摯な祈りを捧げているように見えたのだろう。
牧師夫人は冷たい飲み物を盆に載せたまま、前原の邪魔にならぬよう戸口に立ち止まっていた。
(……あの方の祈りが主の御心にかないますように)
彼女はそっと前原のために神に祈った。
慰藉に満ちた賛美歌が夏の午後の教会にしみじみと響く。
牧師のオルガンと子供たちの可憐な歌声を乗せて、風は庭のノウゼンカズラの花をさわさわと揺らしていった。