◆ディスタンス


大石はコーヒー豆をより出す手を止めた。
声もかけず、振り向きもせず、大石は静かに立っていた。
ことん、と原が彼の背に額を預けただけ。
ただ、それだけのことである。
ほんの数秒。
何も言わずともよい。
同じ時間、同じ空気を共有する、それだけでいい。
原の気持ちをそのまま受け止めてやればいい。
これまでもそうだったし、これからも……そのはずだった。


(……いっそのこと、抱いてしまえば)
大石の胸にふと浮かんだ言葉だった。
(俺は構わんが、それでは原が不憫だ。同情で抱かれたくはあるまい)
「いいえ、いいんです。たとえ同情でも」
大石はぎくりとして背後の原を振り返った。
じっと彼を見つめる必死な目。
彼の怜悧な参謀長は時として彼の心の中を読む。
「今日今このときだけで……すぐ忘れてくださって結構です」
大石は痛ましそうに原を見つめた。
ここまで彼に心を読まれた以上、何を言ってもしても彼を傷つけるだけだ。
「……来い!」
大石は表情を消すと、決然と原の腕を掴んだ。


長官室のドアを開け、大石は大股で廊下に出る。
強い握力で原の腕をひっぱったまま。
「きみの部屋を借りるぞ。異存はないな」
ちらりと原を見やった目は厳しかった。
これから情事の場に向かおうという男の目ではない。
原は不安になった。
なぜ自分の部屋なのか。
冷たく見える大石の態度はなぜなのか。
きつく掴まれた腕が痛い。
大石は原の私室のドアを開け、素早く入るとドアを閉めロックした。
原の腕を掴んだまま大石はベッドの前まで進んだ。
「あっ!」
原は大石に突き飛ばされてベッドの上につんのめった。
(ひどい。ずいぶんと乱暴だ)
ベッドに頬をつけたまま、原は恨めしげに大石を見上げた。
大石は無表情のまま原を見下ろして、制服の上着のホックをはずしている。
ばさっ。
大石の上着が床に投げ捨てられた。
その乱暴な大石らしからぬ動作に原は唇を噛んだ。
(……無理をしている。無理して勢いをつけて)
「……脱げ」
無表情のまま、大石は原に命じた。
大石はワイシャツのボタンに手をかけている。
胸のボタン、そして腕のボタンがはずされた。
原は自分のベッドに座り込んで硬い表情でそれをじっと見ていた。
ぱさ。
白いワイシャツも床に捨てられた。
ランニングだけになった大石が腕を組んで原を見下ろす。
「どうした。脱がないのか」
原はがっくりとうなだれ両手で頭を抱えた。
「……もう、よしましょう。こんなことは虚しいだけだ……」
「勝手な言い草だな。今さらそういうことを言うのはやめてもらおう」
大石は原の頭を掴んでぐいと無理に上向かせた。
「……無理をなさらなくても結構です」
原のきつい目と大石の怒りを含んだ目がぶつかった。
どんっ。
原は肩を突き飛ばされベッドの上に倒れた。
「脱ぐのか脱がないのか。手間を掛けさせるな」
大石の声音は硬く冷たかった。
原はベッドに起き直った。
うつむいて唇をかみ締めながら制服のホックをひとつずつはずす。
こんなはずではなかった。
こんな砂を噛むような味気ない展開になるとは思わなかった。


*      *      *      *


「依怙地だな。何が気に入らない?」
大石は原の後ろから囁いた。
原の背後からその逞しい腕で原をしっかりと横抱きに抱え込んでいる。
「どうしてだ? 俺は十分満足したのに」
頑なに果てようとしない原に匙を投げたように、大石は小さくため息をついた。
原を抱く腕を解き、大石はごろりと横になって天井を見つめた。


大石の情欲だけなく彼の心も欲しかった。
愛されている実感が欲しかった。
たとえその場限りの嘘でもいい、愛してると囁いて欲しかった。
(欲張りな俺。結局は長官のすべてが欲しいんだ。身も心も俺に向けさせたいんだ)
原は大石のほうに向き直り、その肩に手をかけて懇願した。
「お願いです、もう一度……」
大石はチラと原の顔に目をやった。
原は真剣な目をしていた。
「優しくして下さい……同情でもかまわないから」


生半可な愛情はかえって原を傷つけるだろうと、俺は原を情欲の対象として扱った。
原もそのつもりで楽しむだけ楽しんでくれたらよかったのだが。
そうだった、原はメンタルな男だった。
そんなドライなやつじゃない。
「同情でもかまわない」だと?
自分を貶めるんじゃない。
……俺は原をもう一度抱いた。


大石は原を抱いた。
優しく心を込めて、最初から。
「……すまん、俺はそんなに痛くしたのか?」
今日はじめて聞く大石の優しい声だ。
原は目をきつく閉じたまま、子供のようにかぶりを振った。
冷たい扱いのあとで優しくされると、それだけでほっとして涙が出てきそうだった。
「……ならもっと楽しめ。そんな辛そうな顔をするんじゃない……」
大石の声がくぐもった。
「くっ……!」
原の顔面にさっと朱が差した。
「……何も考えるな……正直になれ」
原は夢中で頷き、荒く息をついた。
大石が顔を上げて囁いた。
「これは同情じゃないぞ。俺が抱きたかったから抱いたんだ。それでは不満なのか?」


*      *      *      * 


不満だなんて言えば罰が当たりますね。
あなたは私のわがままを聞いてくれたのだから。
わたしがひとり、あなたに過剰な期待をしているだけなのです。
愛してくれ、と。
唯一の愛人として遇してくれ、と。
「抱きたかった」
あなたはそう言ってくれた。
それだけで十分です。
私もあなたを抱いた。
かつてない快楽も味わった。
十分です。
なのに心が寂しい。
あなたが帰ってしまったのが寂しい。
朝まで一緒にいて欲しかった。
ああ、私はこんなにも強欲です。
……今日のことは忘れてください、長官。
いいんです、私なら大丈夫ですから。