◆磯貝はどこだ?〜続き
(なんだ、カリカリして……せっかくコーヒーによんでやろうというのに)
話も聞かずに出て行った参謀長に、大石は遊んでもらえなかった子供のような顔つきになった。
(だがな、慌てるナントカはナントヤラ……俺は、いない、とは言っていないんだぞ)
気を取り直すと大石は、フフと少し意地の悪い笑顔を浮かべて、従兵控室になっている食器室のドアを開けた。
「おおい磯貝、火傷の具合はどうだ?」
氷水の入った桶で手を冷やしていた磯貝が、大石を見て照れたように笑うと、手の甲を出して見せた。
「おかげさまで、ちょっと赤くなっただけで済みました」
そそっかしい彼は、さっきポットの熱湯で火傷をしてしまい、大石にとにかく冷やせと食器室に放り込まれていたのである。
「な? すぐに冷やせば痛みも残らんだろ?」
「はい、痛みもありません」
「うん、そりゃよかった」
「ご心配かけまして……あのう、いまさっき、参謀長のお声がしていたような?」
磯貝は大石の顔を窺う。
「悪いことは言わん。おまえは外に出るな」
大石はニヤリと意味ありげに笑って見せた。
せっかく難を逃れた磯貝を、わざわざ怒っている原に差し出す気には、なれなかった。
「は? あの、何かあったんですか?」
「今出るとえらい目に遭うぞ。まあ二時間ぐらいだな、ここでゆっくりしていけ」
とたんに不安そうな顔つきになった磯貝の背に手をやって、大石は彼を長官室のソファーに導いた。
「……まあ座れ。コーヒーを淹れてやろう」
「ありがとうございます」
磯貝は不安に目を大きくして、心配そうに大石を見上げていた。
いかつい大男の気弱げな表情に、大石はくすりと笑顔をもらした。
「ほれ、陛下から頂いたチョコレートだ。食っていいぞ」
大石は手にしたチョコレートの缶を磯貝に渡した。
昼の便でコーヒー豆と一緒に届けられた女王からの贈り物だ。
「え、よろしいんですか、そんな」
磯貝はおっかなびっくり、綺麗な模様の缶を眺めている。
「かまわん、遠慮するな」
大石は鷹揚にうなずいてみせる。
女王からの個人的な贈り物とはいえ、菓子を大石が独り占めしてしまうのはさすがに気が引ける。
というより、二個つまんだだけで大石はチョコの甘みで胸がいっぱいになった。
「うわぁ、すごいなぁ。なんだか食べるのがもったいないような……ありがたく頂戴いたします」
目を輝かせて最高級チョコレートをつまむ磯貝の様子に、大石の頬が緩んだ。
(航空参謀を探し回っていささか疲れた様子の、原参謀長の独白)
磯貝のやつ、どこへ行った。
艦橋にも作戦室にも防空指揮所にもいない。
長官でも艦長でもない、早水でも木島でもない。
主計長か? 格納庫で油を売っているのか? ガンルームの若い連中の相手になっているのか?
まったく広すぎる、日本武尊は。
居場所の知れない航空参謀では役に立たんではないか。
夕食の時間になればのそのそ出てくるだろうが……。
ちっ、それから叱ってやり直しをさせていては、今日中に仕上がらん。
やれるところは、俺がやっておくか……。
従兵! 参謀室にいって、磯貝に渡した書類をやり直すから、誰か関連資料をまとめて持ってくるように言え、いいな。
……なんで俺がこんなことまで。
俺は自分の仕事で手一杯なのに。
長官室のテーブルの上には、コーヒーカップとチョコレートの缶が置かれ、茶色い包み紙が散らばっていた。
磯貝は遠慮なくチョコレートをご馳走になったらしい。
ソファーでは上着を取ってワイシャツを腕まくりした磯貝が、これもワイシャツだけになった大石の肩を揉んでいる。
大石は気持ちよさそうに目を閉じて、ぐったりと身体の力を抜いて前かがみ気味になっていた。
「あの、なぜ二時間なんです?」
額に薄く汗を浮かべて磯貝が尋ねた。
「……ふふ、それはな、二時間もあればおまえの仕事は原が粗方片付けてしまってるはずだ……」
薄く目を開けると、大石はニヤリと片頬だけで笑ってみせた。
「……原の癇癪も収まっているだろうし。一石二鳥だな」
大石の答えに一瞬磯貝の手が止まった。
(それじゃあまりに参謀長に悪い……それに、そんなことをすると、後が恐ろしいような……)
原が根に持つとどんなに恐ろしいか、磯貝は思い浮かべた。
口を利いてくれなくなるんですよ。
あの目で睨んで、つんと無視するんですよ。
少なくとも、泣きたくなるような、辛辣な厭味を山ほど言われますよ。
いまからでも出て行って、怒られにいったほうがいいかなぁ……。
「よろしいんでしょうか、そんなことをして」
磯貝は再び手に力を入れて揉みながら、大石の顔を横から覗き込んだ。
「ははは……んん、そこだ、そこんところをギュッと頼む」
大石は曖昧に笑って誤魔化すと、首を伸ばして肩を示した。
「は……」
(ひょっとして長官は、肩を二時間揉んで欲しいだけだったりして?)
言われたとおりに肩を揉みながら、磯貝は情けなさそうな顔になった。
「……くくぅ……効くなぁ……」
大好きな大石にこんなに気持ちよさそうにされると、途中でやめるわけにはいかなくなる。
(参謀長のお怒りは怖いけど……怒られるようなことをした俺が悪いんだし……でも、俺、いったい何をやったんだろ?)
そんなことを浮かぬ顔で考えながら、磯貝は大石の肩を揉み続けるのだった。