◆絵はがき〜続き
次の絵はがきを原は取り上げた。
どこかの小島に建つ鳥居の写真だった。
どこの観光名所か見当がつかず、彼は首をひねった。
原は写真の余白にくねくねした字で書きつけられた歌らしきものを読む――
――来ぬ人を 松かげ暮れて 桂島 寂しき海に 月ぞきらめく
(なんだこりゃ? どうもつまらん歌だな)
原はおかしそうに唇を曲げながら次の一首も読み下す。
――打ち寄せる 浪のひびきも 荒からで 恋しき君の ささやきのごと
(ええっ? これは恋歌じゃないか!)
原は慌てて絵はがきを裏返し、差出人の名を確かめようとした。
富 田 亀 松
「なんだ、爺さんじゃないか!」
がっかりして大声を上げると、原は絵はがきを放り出した。
「え? 何がですか?」
磯貝が原の声に顔を上げた。
「この、浪のひびきも荒からで、の爺さんだよ! てっきり女からの恋歌かと思ったら!」
一度放り出した絵はがきを拾うと、原はそれを磯貝に示した。
「あはは、金物屋のご隠居ですよ。吟行が趣味でして。なかなかしっとりした歌を詠まれるでしょう?」
「おまえなあ……」
原は呆れ顔になった。
(歌好きのご隠居はどうでもいい。一体全体、これだけ手紙が来ていて、なんで女からのが一通もないんだ?)
「……なんです?」
今書き上げた便箋を折りたたみながら、磯貝は上機嫌で聞き返す。
「一通ぐらいないのか、女友達からの手紙は」
「そんなのいませんよ。だってどこで知り合うんですか、若い女性と」
封筒の返信の宛名を確認しながら、磯貝は真顔になって答えた。
その磯貝の顔を、原はベッドからまじまじと観察した。
……別段、そうまずい顔でもないと思うんだが。なんで女に縁がない?
顔の造作はいかついが、全体的に清潔感がある。
眸が澄んでいて、見るからに純情そうだ。
「おまえが避けてるんだろ、年増好みだから」
「なっ……」
原のあけすけな言葉に、磯貝は目をぱちくりさせて絶句した。
「図星だろ?」
原はベッドに片肘を突いて頭を起こすとニヤリと笑った。
「人のことばっかり言って、ご自分はどうなんですか」
少し動揺しながらも、磯貝は原のほうに向き直って反撃を試みる。
「俺か? 俺は独身主義者だと言っただろ」
「そうでもですね……参謀長はご両親がご健在なんでしょう?」
「なんだ唐突に」
「お見合いとかですね、うるさく言われませんか」
「この歳まで頑張るともう誰も何も言ってこないさ」
ふふん、と鼻で笑うと原はまたごろんとベッドに転がった。
世間にお節介やきはじつに多い。
大尉、少佐の十年間は両親親戚のみならず、上司までが要らぬ縁談を幾つも持ちかけてきた。
独身主義を貫き通すにあたっては、原もうんざりするほど周囲と衝突したものである。
「だいたい妻帯をうるさく勧めるのは日本ぐらいなものだ。外国じゃ独身の軍人なんて掃いて捨てるほどいる」
「……はぁ」
そんなものかなと磯貝は首をひねる。
それにしてもよくまあ意地を張り通せたものだと磯貝は原の顔に目を向けた。
怜悧な切れ長の目元、すっきりとした鼻筋、正真正銘の美男子だ。
……周りだけでなく、世の女性が抛ってはおかなかっただろうになぁ? 片っ端から言い寄る女性を振りつけたのかぁ? なんで?
「まさか夫ある婦人を思って独身を守ってる、なんてことはないですよね」
磯貝が思いつきを口にした。
「はぁ? バカらしい、そんなんじゃないよ」
おかしそうに笑うと、原は磯貝の顔をじっと見つめた。
どういう発想だ? ヘンなやつ。さては……。
原の目がいたずらっぽい光を帯びた。
「おい磯貝、おまえ今何を読んでいる?」
そう言いながら原は磯貝のベッドの枕もとの棚を物色しだした。
そして美麗な装丁のいわくありげな洋書を彼は引っ張り出した。
「……ははーん、これだな。……美しき人妻に捧げる無償の愛ってか? 単純だなぁおまえは」
表題には『A Tale of Two Cities / Charles Dikens 』とある。
ディケンズの『二都物語』だ。
主人公のカートンは友人の妻に恋し悩み、ついには友人の身代わりとなって断頭台の露と消える。
「どーせ単純ですよ、私は」
磯貝はむくれた。
「ただ、普段からそんな雰囲気もちょっとあるかなー、と思っただけで」
彼はちらりと原の顔に視線を走らした。
「どんな雰囲気だ?」
「外の景色をご覧になってるときなんかですね、遠くをご覧になっているかんじが、口に出せぬ想いに胸が塞ぐというような、思いつめた雰囲気がですね……」
自分で言っておいて、照れくさそうに磯貝は口ごもった。
「ばっかばかしい!」
一言のもとに原は吐き捨てた。
吐き捨てはしたが、言葉の端に動揺がにじみ出た。
思い当たるフシがないでもない……。
「あ、否定の仕方がどうも怪しい!」
磯貝がわっと囃しにかかったので、原も負けじと言い返す――
「なんだと、この年増好み! 航海長がしゃべってたぞ、おまえこの前、店の女主人と――」
「わーー! それは言わないでーー!」
椅子から飛び上がると磯貝は、泣かんばかりの勢いで原にのしかかり、彼の口を手で塞ごうとした。
「こらっ! 暴れるな!」
ふたりはたちまちベッドの上でつかみ合いになった。
「自分だって陰でこそこそ遊んでるくせにー!」
「なんだと、いつ俺が」
ベリ……。
不穏な音が原の背中の下でした。
「これ、私の本じゃないんです。長官にお借りした……」
背表紙が破れた『A Tale of Two Cities 』を手に、磯貝が泣き出しそうな顔で原を見た。
「え、長官の本か……」
ベッドに座り込んだまま、原は弱ったように口ひげに手をやった。
大石に古書収集の癖があるのは彼もよく知っている。
エジンバラに行く度に、大石がけっこうな額を出して稀覯本を買い集めては悦に入っていることも。
(まずいなぁ……しかし傷めてしまったものは仕方がない。一緒に謝りに行くか……)
原は傷んだ本に目をやって、小さくため息をついた。
「……おまえがわざわざ洋書を読むなんて変だと思ったんだ。しかもディケンズを」
言いながら原はベッドの枕もとの棚にあったもう一冊の本を指先で突付いた。
「ほら、こっちは野村胡堂の銭形平次だもんな、まったくおまえの愛読書ときたら」
「ほっといてくださいよ!」
磯貝はふくれっ面になった。
大石はすでに私室にひきとって寛いでいた。
長官私室の戸口に並んで、こもごも謝罪する原と磯貝を、大石は珍獣でもあるかのようにしげしげと見た。
「ほぉ……。で、ベッドでふざけていて、本を傷めたというんだな?」
「は……」
申し訳なさそうに磯貝は頭を垂れた。
「その、ふざけていた、というのはちょっと違います」
意味ありげな大石の言葉に、原がキラッと目を輝かせて訂正した。
「ほぉ。じゃ、なにをしてたんだ?」
「磯貝がムキになって怒りまして」
「……ベッドでな」
大石はにんまりと笑った。
「長官、変なふうに誤解なさらないでください――」
「べつにしとらんよ」
やっきになっておかしな疑いを解こうと勢い込む原を、大石はまあまあと手を上げて黙らせた。
「おまえたちが打ち解けるようになって、俺は喜んでいるんだ。本の一冊や二冊で怒ったりせんよ。……いい装丁だったんだが」
「申し訳ありません」
また頭を下げるふたりを前にして、大石はいたずらっぽい笑みを湛えながら、傷んだ本の表紙を指でそっといとおしそうに撫でていた。
「磯貝、このディケンズはおまえにやるよ。まだ全部読んでないのだろう? 傷んでしまったが読む分には支障はなかろう……これ以上傷めないよう、大事にしてやってくれ」
「は、よろしいので?」
磯貝は半信半疑の面持ちで大石から本を受け取った。
「ああ、記念にもって帰れ」
「ありがとうございます……」
大石の鷹揚な笑顔に送られてふたりは長官私室を後にした。
ふたりが帰った後も、大石はクスクスと楽しそうに笑っていた。
ディケンズ一冊で面白いモノが見られた……赤くなった原と青くなった磯貝……十分値打ちはあったといえる。
ガラスを割った中学生よろしく、雁首並べて謝りに来たふたりの様子ときたら。
ベッドでふざけてだと? ふたりでごそごそ何やってんだか……とにかく仲良きことは善きことかな……大石は満足だった。
大石が快く勘弁してくれたので、ふたりはほっとしていた。
人気のない通路をふたりは押し黙ったまま並んで歩く。
不意に原が口を開いた。
「それを貸せよ……直してやるよ」
「え?」
磯貝は原の顔を見た。
まつげの長い目が考え深げに瞬いていた。
「海図の補修に使うテープがあるだろう? あれで丁寧に貼れば、結構きれいに直せると思う」
「でもお忙しいのに、そんなことまで」
手の中の傷んだ本に磯貝は目を落とした。
「いいさ、細かい仕事は俺のほうがうまい」
原はひょいと手を伸ばすと磯貝から本を取り上げた。
普段はきつい切れ長の目が磯貝に明るく笑いかけていた。
――数日後『A Tale of Two Cities 』は磯貝の手元に戻っていた。
ちょっと見にはわからないほど、背表紙の破れはテープで丁寧に修復されていた。
原参謀長は手先も結構器用なのである。