◆福梅(ふくうめ)


コトコトと手のひらほどの小さな鍋が煮立っている。
艦長が後ろ手を組んで鍋をみつめていた。
眠っているかのような、糸のように細められた富森の目はいつものように穏やかだった。
「なんていうか……やっぱりお薬の匂いですね」
鼻をひくつかせながら磯貝が富森の背中に話しかけた。
彼は艦長室のソファーに腰掛けて、薄茶と菓子をよばれていた。


正月だからと富森が茶を点ててくれたのだ。
ふんわりと細かな泡が色絵の茶碗の中ほどまである。
茶碗を前にした磯貝は傍目からもわかるほど緊張した。
「そんなに緊張なさらずとも……ご心配なく、普段使いの茶碗ですから」
「そ、そうなんですか?」
磯貝はややほっとしたようすで肩の力を抜いた。
彼は作戦室で大石の大切にしていたスポーンのコーヒーカップを割った前科がある。
あのときの大石の、耳の欠けたカップを手にしてしゃがみ込んでいた後姿は、生涯忘れられそうもない。


正月らしい菓子があればよろしいのですが……そうつぶやきながら富森はそれでも落雁(らくがん)を出してくれた。
「少々硬くなってませんかな?」
喜々としてさっそく一口かじった磯貝を、目を細めて見守りながら富森は聞いた。
「いいえ、おいしいです! 口溶けがやっぱり落雁だなぁ」
紅白の梅をかたどった落雁を手にしながら、磯貝は懐かしそうに笑った。
「梅ですね……郷里の金沢でも正月は梅の形をした和菓子で祝いましたよ。福梅っていいましてね……福梅は梅形のもなかの中に粒餡が詰まった菓子でしてね、店によって少しずつ形や甘さは違うんですけど……梅鉢のご紋は加賀の殿様のご紋だから、金沢じゃお正月は梅の形をした和菓子で祝うんです」
「ほう……」
穏やかな笑みを目元にとどめ、富森は磯貝の話に耳を傾けている。
磯貝は加賀金沢の生まれ育ちだ。
生家は昔の面影を色濃く残す茶屋町の近くだという。
富森に故郷の話をするときなど、磯貝はおっとりとした金沢言葉を無意識に口にのぼせることがある。
そんなとき、いつも富森はほんの少しその笑みを深くした。
富森はこの邪気のない素直な気質の参謀を、ことのほか気に入っていたのだ。


小さな薬鍋がコトコトと薬草臭い湯気を吹き上げている。
「……何の煎じ薬ですか?」
鼻にしわを寄せて鍋のほうをうかがい見る磯貝に、富森はゆっくりと振り返った。
「オウレンです。出来上がったら参謀長に持っていっておあげなさい。二日酔いによく効きます」
「オウレン?」
「キンポウゲの一種で、胃の痛みを和らげます」
「漢方薬までお持ちなんですか?」
艦長は和菓子だけでなく漢方薬のストックまで持っているのかと、磯貝は目を丸くした。
驚いたような磯貝の声に、富森は控えめな微笑をその謹厳な面持ちに浮かべてみせた。
「天津にいたころ、向こうの薬種商と親しくなりましてな。今でも何かと行き来があります」
「天津に?」
「さよう、盧溝橋事件以前ですから、もう十五年ほど前になりますかな」
旅順から天津へ移った照和十年の夏を思い、富森の声がわずかに湿った。
遠い昔のことだが、あの頃のことは忘れもしない……。
富森の頬に浮かんだ微笑が少し寂しげだったことに磯貝は気がつかなかった。
「私は学校と海軍省を行ったり来たりしてばかりで、艦隊実務をほとんどしてないから、外地にも縁がなくて……うらやましいです」
富森は何も言わずにまたほほえんだ。
今度はこのぜんぜんすれていない青年を好もしく思ったからだ。
兵学校の生徒がそのまま参謀職緒を吊るしているような、童顔の磯貝。
原のようなピリピリしたところのある男が、こののんびりした暢気な参謀に気を許していることが、富森にはなんともおもしろく思えた。
……これも一種の天の配剤かもしれぬ。
似た性質の者が寄りあい相和すのは当然だが、こうも性質のかけ離れた者同士が引き合い補い合うのもまた人間の面白さであろうか。
近頃は磯貝もすっかり明るくなったし、原も一時のイライラから解放されたようだ。
――俺もほっとしたよ、参謀長と先任参謀が不仲では上に立つ俺がやってられんからな――そう言って艦長室で、煎茶を喫しながら磊落に笑っていた大石の笑顔を富森は思い出していた。
ごそごそケンカばかりしているようだが、あのふたりはもうほっときゃいい。そのうちいつの間にか仲直りしているからな――
富森も大石と同意見だった。
……もう大丈夫だ、もう私が端から心配することもない……。


「いま一碗、いかがですかな?」
スーッと音をたてて最後の一口を飲みきった磯貝に、富森が静かに声を掛けた。
「いえもう足りました、結構なお服加減でした」
お仕舞いくださいと磯貝が一礼して茶碗を戻す。
富森がさらりとやや薄めに立ててくれた茶で、磯貝はすっかり満ち足りた気分になっていた。
点前には人柄が出るという。
富森の点前は控えめであったが、きっぱりとした武人らしい点前だった。


茶道具を片づけた富森は、薬鍋を火から下ろした。
半分ほどに煮詰まった黄色い液体が苦そうな匂いの湯気を立てている。
昨晩の原の様子では、いまごろひどい二日酔いに苦しんでいるはずである。
朝食の席にも顔を出さなかった原を思いやって、富森は薬を煎じることにしたのだった。
ちょうど磯貝が遊びに来てくれたことも好都合だった。
富森がわざわざ薬を持っていくよりも、磯貝が持っていったほうが原も気が楽だろう。
「では磯貝さん、お願いいたしますよ」
厚手の大ぶりな湯飲みに煎じ薬を注ぐと富森はニッとほほえんだ。


苦そうだなぁ、きっとよく効くぞ……そんなことをつぶやきながら磯貝は大事そうに湯飲みを載せたお盆を捧げ持って行った。
ひとりになった富森は、薬鍋を傾け残りの煮汁を全部自分の湯飲みに注いだ。
そして匂いだけでなく味も相当に苦い煎じ薬を一口すすった。
……付き合い酒というものはまったくもって身体に悪い。
富森も昨夜のような深酒のあとは胃の具合がどうもよくなかった。
薬の効能なら我が身でとうに実証済みだ。
オウレンは十五年前からの富森の愛用薬なのである。