◆冬の怪談〜続き
「その首吊りに使われた掲揚索がじつはこの日本武尊に備品としてあるんですよ……」
早水の怪談は佳境に入っていた。
「ええっそんなっ」
磯貝がぞっと震え上がる。
「嘘じゃありませんよ。ここの下の格納所に行ってごらんなさい。金剛の名を消した跡のある備品箱がありますから」
「そんな気持ちの悪いものをどうしてまた……」
「海軍にも節約令が出たでしょう? 別にどこも痛んでるわけでなし、倉庫に何年か仕舞われていたのが、たまたま日本武尊の備品になったんですよ……」
磯貝は鳥肌を立ててソファの隅っこですくんでいる。
「私もまさかと思いましたよ。私は偶然、気がついたんですけどね。いやぞっとしましたよ、その箱の表書きを見たときは……」
早水は思い入れたっぷりに首を振って見せる。
「幽霊騒動の原因はこの掲揚索かも……。金剛の首吊り水兵の恨みがそのロープにのり移っている……のかもしれませんよ……」
また早水がニターリと笑う。
ちらりと磯貝の顔を見て、そのストレートな怖がりぶりに彼は大満足だった。
原は肘掛に頬杖をついて話を聴いているのか寝てるのか、知らん顔をしている。
早水は磯貝をたっぷり怖がらせると持ち場に戻っていった。
「怖いなあ。ホントに祟りなんでしょうか」
磯貝が血の気の失せた顔でつぶやく。
「ばかばかしい。いくらなんでも死んだ水兵の首に絡まっていたロープを再利用すると思うか? いくら節約と言ってもそこまではしないぞ」
原は呆れたように彼の部下を見た。
……まったくこいつは何でも真に受けて怖がるんだからな!
「だいたい金剛の首吊り事件だって本当にあったかどうか怪しいもんだ。その手の駄ボラは昔からある。何年か前に格納所で自殺者がでたかどうかは調べればすぐわかることだ」
「はあ。でも本当に該当者がいたら……うわぁゾッとしますよ。御祓いでもすべきでしょうかね? でも英領ト島には神主さんも坊さんもいないしなあ」
「御祓いだと? ははは、バカも休み休み言え」
たまらず原は噴きだした。
「さあ、くだらんこと言ってないで俺たちも持ち場に戻るぞ」
原は磯貝を促して休憩室を出た。
深夜の艦内通路は薄暗い。
とくに原たちがいる艦橋下は格納所や控え室に充てられていて、人気もなくシンと静まり返っている。
「……早水航海長をみんななんて呼んでいるか知っているのか、おまえは? ホラ吹き早水って言うんだぞ」
暗い通路にびくびくしている磯貝に原が話しかける。
「でもたしかに怖いんですよ、夜にあそこのラッタルを使うのは。普段から薄暗くて気味が悪いです」
「おまえ、ほんとに臆病だな。何も出るわけないだろ?」
原はエレベーターの操作盤を押した。
低いモーター音が壁に伝わってくる。
エレベーターの扉が開くのを待つ間も磯貝は不安げだった。
ぴたりと自分のそばに引っ付いている、この外見だけはいかつい男を見て原は苦笑した。
「……出るかもしれない、というのが怖いんですよ。だから人間は暗闇と背後が怖いんです」
「だからといって、いい年して灯りをつけて寝るのはおまえぐらいのもんだ」
エレベーターの扉が開いた。
原に続いて磯貝も乗り込む。
「そうはいっても。……このエレベーターも薄暗くて嫌ですね」
「だらしがないな」
たしかにエレベーター内の照明は電球一つで薄暗い。
頼りなげな照明を上目遣いで見る磯貝の心細そうな顔を見て、よせばいいのに原は磯貝をからかいたくなった。
原は真剣な顔つきで磯貝の右肩の後ろをじっと見つめてみせた。
「ん? 誰か立っているぞ、おまえの後ろに……」
「ええっ、よしてくださいっ」
磯貝がぎょっとしてこわばった。
どういうわけか、そのときフッと一瞬エレベーター内の照明が消えた。
……冷静になれば訓練時の緊急電源の切り替えテストだとわかりそうなものなのだが、タイミングがまずかった……。
きゃーーーっ!
普段の低音からは想像もつかない磯貝の甲高い悲鳴が真っ暗な密室に炸裂した。
恐怖に動転した磯貝がやみくもに飛びついてきて、原はバランスを失ってよろめいた。
パニックを起こした磯貝はその馬鹿力で原に無我夢中でしがみついてくる。
がたん。
エレベーターが停止した。
「うわ、わ、わ」
無情にもエレベーターの扉が開き、扉に背中を支えられて立っていた原は、抱きつく磯貝もろとも夜戦艦橋の床に派手にひっくり返った。
密室のエレベーターから艦橋の床の上に、しっかりと抱き合って倒れこんできた参謀長と航空参謀。
艦橋要員はみな自分の目を疑った。
「う……」
腰を打って、痛みにしばらく声がでない原。
その原の上に乗っかったまま、呆然としている磯貝。
「……放せ……さっさとどけ、ばか」
苦しそうに原が小声で叱る。
「あ……申し訳」
「いいから、どけっ」
ごそごそ言い合う声も聞きようによってはなにやら痴話喧嘩めいて聞こえる。
艦橋は異様に静まり返っていた。
「……いったいなにやってるんだ? おまえたちは」
好奇心に満ちた無遠慮な大石の声が艦橋に響いた。
薄暗い夜戦艦橋の隅で参謀長と航空参謀が小声で言い合いをしている。
「ばか。ばか磯貝。おまえのせいで大恥をかいた」
薄暗がりでもわかるぐらい、原の顔は赤くなっていた。
「長官やみんなになんて思われたと思うんだ。おまえのせいだ」
原は泣きそうな赤い顔で磯貝を小突いた。
「いてっ。すみません。しかしですね、あの場合」
「抱きつくやつがあるか、ばかやろう! しかも馬鹿力で」
「怖かったんですよ、あんなことをおっしゃるから」
磯貝もたまらず言い返す。
「そこのふたり、訓練中は私語を慎め」
大石がにやりと笑って、ふたりのほうを振り返って注意した。
「はっ」
「はいっ」
ふたりは姿勢を正した。
艦橋の乗組員たちがクスクスと笑う。
(この、ばか磯貝!)
憤懣やるかたなく、原は台の下の磯貝の向こう脛を腹いせに蹴飛ばしてやった。
……ぼかっ。
「イテーッ」
素っ頓狂な大声を上げて、磯貝が跳ね上がった。
「こらっいつまでもじゃれてるんじゃない」
大石の叱責が飛ぶ。
「はっ」
「ははぁ……てて」
よほど脛が痛かったのだろう、磯貝は涙を浮かべていた。
(ひどいですよ、参謀長。どう考えても参謀長が無体です)
薄暗がりで磯貝は脛の痛みをこらえながら半泣きになっていた……。