◆続ひげ(後編)


「ふうぅ……」
満足げにため息をつくと磯貝は最後のページを閉じた。
事件は解決、大団円。
金田一青年の名推理と物悲しい終幕の余韻に浸りながら磯貝は伸びをした。
(そうだ。姉貴にお礼の手紙を書いておこう)
磯貝は便箋を出し、小説の礼と感想を万年筆でさらさらと書き出した。
半時間足らずで手紙を書き上げると磯貝はベッドに潜った。
闇の中に横たわると
「コロコロシャン……」
と琴の音が響いてくるような気がする。
壁に飛び散った鮮血が頭に浮かんでくる。
(……怖い)
磯貝はベッドに起き直った。
裸足のまま床に下りると机のライトを点けた。
黄色い光が部屋を照らす。
……どうやらこれで不気味な幻聴も幻影も追い払えそうである。
磯貝は心強くなったのでベッドに戻り、数分後にはスウスウと寝息を立てていた。

コツコツ。
コツコツコツ。
磯貝は目を覚ました。
机のライトが天井の配管に黒い複雑な影をつけている。
「磯貝?」
ドアが細く開かれ、原が首だけ差し入れて部屋の様子を窺った。
「ああ、参謀長!」
磯貝はほっとしたような声を上げて、ベッドから床に降りた。
「なんだ。もう寝ていたのか。明かりが点いているようだからまだ起きてると思ったんだが……起こしてすまなかった」
「いえ、そんな。構いません」
磯貝に迷惑そうな様子はまるでない。
「すまんな。さっきの小説の続きなんだが、もう読んだか?」
原は少し照れくさそうだった。
続きがどうしても読みたくて、明日を待ちきれずに磯貝のところへ借りに来たのだ。
どうやら彼も戦術論文を後回しにして、横溝を先に読み出したようである。
「読んだのなら続きを貸してくれないか?」
「え? あ、はい!」
磯貝はぺたぺたと裸足で歩いて机の引き出しを開け、綴り本の残りを取り出した。
「どうぞ」
「ああ、すまん。もうベッドに戻ってくれ」
原は本を受け取ると寒そうな磯貝を気遣った。
「明かりを消してやろうか?」
「あっ、消さないで下さい!」
とっさに必死な声を上げてしまって磯貝は後悔した。
消されても後で点けたらいいのである。
(ははーん、こいつ本を読んで怖くなって、明かりをつけて寝ていたんだな)
察しのいい原は、叩き起こされてもなにやら人恋しげな顔をしていた磯貝の様子に得心がいった。
(これはおもしろい)
パチリ、とライトが消され部屋は真っ暗になった。
「わっ」
磯貝が驚いて声を上げた。
「ククク……」
原の押し殺した笑い声が闇の中から聞こえた。
「参謀長! びっくりさせないで下さいっ!」
ひきつった磯貝の声に原は噴きだした。
パチッ、とライトが点き、温かな光が笑う原を照らした。
「すまん、つい……そんなに驚いたか?」
ようやく呼吸ができたというような顔で磯貝が原を見た。
「心臓が止まるかと思いました……」

……急に真っ暗になれば誰だって驚く。
明かりが消えたのにも驚いたけど、僕は参謀長がそんな悪戯をなさったことにもっと驚いたんだ。
普段はとても真面目で近寄りがたくて、そんなことをするような人じゃないからね。
参謀長はずっとクスクスお笑いになっていて、それもめずらしかったよ。
それでね、参謀長は
「ここで本を読んでいてやろうか? 人が居ればおまえも怖くないだろ?」
なんておっしゃるんだ。
なんだか僕のことをすごい怖がりのように誤解されたみたいだ。
いくらなんでも僕はそんなに臆病じゃない。
でもね姉さん、僕は
「はい」
とお答えしたんだよ。
僕はそんな優しいことを言ってくださる参謀長のお気持ちが嬉しかったんだ。
ついこの間までは、こんな優しい言葉を掛けてもらえるなんて思いもしなかった。
そう思うと、僕はまた胸がいっぱいになって泣きそうになってしまった。
参謀長はね、自分にも人にも厳しい人だから、ぜんぜん隙がないんだ。
でも本当は感じやすい心を持った、とても優しい人なんだよ。
顔には出さないけど、心の中では笑ったり泣いたりされているのが、この頃僕にもわかるようになってきた。
本当にいい人だよ。
それでね姉さん、参謀長は笑って
「じゃあもう寝ろ。俺はここで読ましてもらうから。読み終わっても明かりは消さずに出て行くから安心しろ」
そう言って僕の机で本を読み出されたんだ。
僕は
「すみません、参謀長。お言葉に甘えて横にならせていただきます」
そう言ってベッドに潜った。
下着だったから寒かったしね。
参謀長は
「うん」
とだけ返事されて本を読んでらした。
ベッドから見た参謀長の横顔はとても綺麗だったよ。
男を綺麗だなんて言うと変だけど、まつげの長い本当に綺麗な横顔だったよ。
目を閉じるとパラ、パラとページをめくる音と、ときどき身動きされる物音だけが聞こえてきた。
それを聞いていると、なんだかとても安らいだ気持ちになった。
ずっとこのまま参謀長に甘えていたくなった。
こんなことを書くと、正久はいつまでたっても甘えん坊だとまた姉さんに叱られるかな……

「正久ったら」
彼女は遠い戦地から届いた手紙に泣き笑いをした。
彼女の可愛い弟は小説のお礼と感想、そして長い追伸を書いてよこした。
「よかったわね、参謀長さんと仲良くできそうで」
読み終えた手紙を彼女は丁寧に封筒にしまうと、また神棚に供えた。
(どうか正久が立派にお勤めをはたせますように……元気で帰ってきますように……)
彼女は弟の無事を祈ってそっと神棚に手を合わせた……。