◆密かな計画


1950年1月、激しい空襲のやんだ静かな新年が英国に訪れた。
ブレストで結ばれた休戦協定はつかの間の平和を英国にもたらしたのだ。
しかしその代償は大きかった。
ウェールズ要塞の開城と南イングランドの中立化……事実上の英国領土の分割である。
飢餓に直面した南イングランドの国民を救済するためには、やむを得ない処置ではあった。


灰色の雲が薄青い空に流れる風の強い昼下がりのことだった。
インバネスにある仮王宮の謁見室にチャーチル卿が女王の前に立っていた。
チャーチル卿は苦渋に満ちた表情で女王に休戦協定の成立を上奏した。
「どうかお許しください、陛下」
強気で鳴らしたチャーチル卿が女王の前に悄然と頭を垂れた。
「卿の判断は間違っていません。国民の命には代えられませんもの……」
マーガレットは力なくつぶやいた。
(私は英国本土を手放した不名誉な女王になったのですね……)
「ご苦労でした。卿も十分休養を取るように」
憔悴した表情のチャーチル卿をねぎらうと女王は謁見室を出た。
今はひとりになりたかった。
女王の居室に戻るとマーガレットはソファに崩れ落ちた。
領土を敵国に蹂躙され、挙句国民を人質に取られその自治を奪われてしまった!
悔し涙がマーガレットの目に浮かぶ。
領土割譲にも等しいこの休戦協定には反対する人々も大勢いる。
しかし占領下の南イングランドの窮状の前に、徹底抗戦を支持する気概は彼女にはなかった。
三千万の英国民を人質にしたナチス独逸の恫喝外交に英国は膝を屈したのだ。
その日一日、女王は居室から出ることはなかった……。


翌日。
「お呼びですか、お姉さま」
妹のメアリ王女が女王の居室にやってきた。
「あなたに大事な相談があるの……」
マーガレットは自身の退位の意思を妹に打ち明けた。
「お姉さま、本気なのですか?!」
思わず、メアリは姉の手に取り縋った。
マーガレットは答えなかったが、その目には並々ならぬ決意がきらめいていた。
「お姉さま、王位を捨てるなんてそんなこと……」
「責められても仕方がないわ。私はもう駄目。女王として失格なの」
「なにをおっしゃるの!」
メアリは姉の華奢な手を握り締めた。
「お姉さまは立派に勤めておいでです。立派な女王だわ。どうしてそんなことを」
「王位より恋が大切になってしまったから……国を治めるより大石さまのほうが大切になったからよ」
「大石提督……」
メアリは姉の恋にうすうす気はついていた。
姉に引き合わされて以来、幾度か大石提督と同席したこともある。
包み込むような暖かい笑顔が印象的な魅力的な人物だった。
マーガレットが特別な感情を大石提督に持っていることは、姉の態度からなんとなく察せられた。
……どうやらお姉さまは大石提督がお好きなようだわ。
メアリはそう思ったがそんなにも真剣な恋に発展してようとは思いもよらなかった。
マーガレットが王位を捨ててまで大石のもとに走ることを考えているなんて!
メアリは憤然とした。
「どうかなさっているわ! 恋なんていつかは冷めるものよ」
「あら、自分はさっさと結婚したくせに」
マーガレットは醒めた言い方をする妹にむっとしたようだ。
「ごめんなさい。でも彼との結婚を急がせたのはお姉さまよ」
「あなたたちはお似合いだったんですもの、好きあっているなら早いほうがいいじゃありませんか」
メアリの夫は女王姉妹と同じくヴィクトリア女王の血を引いた従兄弟のひとりである。
もともとマーガレット女王の伴侶に相応しいと目されていた王族であった。
それを何かにつけて二人を接近させて、結婚話を強く推し進めたのはマーガレットだった。
メアリはその頃から姉が将来の退位を考えて、メアリに女王として相応しい結婚を早々とさせたのではないか……すべて姉の深謀遠慮だったのではないかと気がついて愕然とした。
「まさかお姉さまははじめから退位のことを考えて、私と彼の結婚を勧められたのですか?」
「無理強いはしてないでしょう? 私があなたのアレグザンダーと結婚していてもよかったの?」
「それは……」
「ほら御覧なさい。あなたがアレグザンダーに恋していたのはちゃんと知っていたのよ」
マーガレットにとってアレグザンダーは上品で退屈な従兄弟でしかない。
大石のことがなくとも、マーガレットは彼にまったく興味はなかった。
たまたま妹がアレグザンダーに好意を持っているようなので、これ幸いとふたりの結婚の後押しをしただけである。
(……多少恩着せがましくなるけれど。でもメアリの協力がなければ計画は進まない。なんとかこの真面目な妹を説得しなくては)
マーガレットは不屈の闘志を胸に秘めて、妹に優しく微笑みかけた。


自分は大石以外と結婚する意志がないこと。
大石との結婚が許されないのなら、たとえ修道院に入ってでも退位するつもりであること。
マーガレットはいささか時代がかった「修道院入り」まで持ち出して、メアリを涙ながらにかきくどいた。
理知的なようでも情に脆いメアリは姉の涙の訴えに貰い泣きしてしまう。
姉が「さりげなく」触れたように、メアリの恋に気づいた姉がアレグザンダーを諦めて身を引いてくれたのだとしたら……今度は自分が姉の恋に一肌脱ぐべきなのではないだろうか?
律儀で姉思いなメアリはこの時点でほぼマーガレットに丸め込まれていた。


マーガレットはほっとため息をついてソファに顔を埋めた。
なんとかメアリは協力してくれそうだ。
メアリさえ賛成してくれれば、彼女の夫は問題ない。
王女の夫であるよりも女王の夫であるほうがアレグザンダーの気に入るだろう。
それに将来自分の子供を王位に就けることができるのだ。
アレグザンダーがマーガレットの退位、メアリの即位に反対するとは思えなかった。