◆日本へ

女王のお召しにマロウェイ伯は蒼惶として執務室への廊下を急いでいた。
退位の相談を受けて以来、老伯爵は気の安らぐことがなかった。
彼を呼びつけては、すぐにでも退位したい、もう私には女王は務まらない、と強い調子で訴えるマーガレットを宥めるのに骨が折れたのもあるが、なによりも日に日に憔悴する女王を目の当たりにするのが老伯爵にはつらかった。
しかしながら、今のこの時期、どう考えても女王が退位すれば国内によけいな混乱が生じる。
だいたい退位しても、相手の大石提督は艦隊を率いて戦場にいるのだ。
どうしようもないではないか、とマロウェイ伯はため息をつく。
……おかわいそうな陛下。思い切った休養でもお取りになるべきだと思うが。
神経衰弱ではないかとの侍医の所見もある。
先だっては遠まわしに転地療養を勧めてみたが
「退位も出来ずこのまま幽閉されるくらいなら、いっそのこと一思いに死んだほうがましだわ」
――女王はそんなことを口にして、忠義で一徹な老伯爵を狼狽させたのである。
……ああ、どうすれば陛下のお心をお慰めできるだろう。こうなるとまったく大石提督が恨めしいわい。
そんなことを鬱々と考えながら、マロウェイ伯は女王の執務室の前にたどり着いた。

女王は窓の前に佇んでいた。
天井近くまである大きな窓に寄り添って、女王は何事か一心に思案している様子だった。
すらりとした上背がありながら、可憐な印象を与えるその華奢な後姿に、マロウェイ伯は深々と頭を下げた。
「マロウェイ、お召しによりおん前に……」
マロウェイ伯の声に女王はゆっくりと振り返った。
女王の瞳はきらきらとした輝きを放っており、その頬には紅く血が上っていた。
ここしばらく見ることのなかった生気溢れる女王の表情に、マロウェイ伯は意外そうに目を見開いた。
「これは陛下、今日はことのほかご機嫌うるわしゅう」
元気そうな女王の様子に老伯爵はほっと愁眉を開いてみせた。
「そう見えて? 今日は大切な相談があるの」
女王は窓から離れ、机の上に置かれた書類を手に取ると伯爵に歩み寄った。

 (元儀典長マロウェイ伯の語る)
陛下は機密書類の印の付いた書類をお手にされていた。
「来月の白鳳渡航者リストです」
白鳳。
二年前、科学者の一団をナチスの魔手から救い、日本に亡命させた超大型飛行艇だ。
ひとたび飛び立てば無着陸で北極海を横断できるという。
今も英国内の亡命希望者を乗せて日英間を定期的に往復している。
「大石提督は今日本にいらっしゃいます。参謀本部からの確かな情報です」
まさか……。
私はひやりとしたものを背に感じた。
「マロウェイ、私も白鳳で日本にまいります」
そんな、今英国を離れられるのは――
私はそう言いかけて口を噤んだ。
ここでいつもの議論を蒸し返してはいけない。
一呼吸おいて心を落ち着けると、私は精一杯冷静に陛下に問いかけた。
しかし、どうやって……どうやって搭乗なされるおつもりですか?
私の問いに陛下はいたずらっぽく微笑み返された。
「ねえマロウェイ伯。モニカは元気かしら。長くお会いしてないけど」
モニカは我が家の末娘だ。
戦争前にロンドンの実業家と結婚し、今はひとりでアバディーンにいる。
「私がモニカに成りすまして日本に渡るのはどう?」
どう、とおっしゃいましても。
そんな無謀な。
それに白鳳は数ヶ月先まで座席がふさがっているのではありますまいか? 大変な順番待ちだと聞き及んでおりますが。
「いいえ。白鳳には緊急用にいつも数名分の座席が空けられているのですよ。座席なら大丈夫、マロウェイ伯と家族を亡命させてほしいと私から頼み、さきほどリストと許可証が届きました」
陛下はリストを見てみるようにと私のほうに差し出された。
そんな細かい文字はこの老人にはかすんで見えませぬ、ちょっとお待ちを。
私はふところから老眼鏡を取り出した。
「さ、よくご覧なさい。あなたの家族の名前があるでしょう? もちろん、あなたとクレアはキャンセルしてもよろしいのよ。私だけがモニカとして亡命すればいいのですから」
陛下の指差される箇所にはたしかに私と家内、それにモニカの名前が記載されてあった。
おお、なんということだ……!
私は慌てて書面の渡航予定日に目を走らした。
来週ではないか!
私は肝を潰した。
「白鳳に乗ればすぐに日本に着いてしまいます。そうでしょう?」
しかし、しかし……日本の飛行艇など危のうございます、日本とドイツはまだ戦争中でございます。
もし撃墜されるようなことがあれば……。
「そのときは運がなかったと諦めます」
陛下は必死に止める私に、すましたお顔でそうおっしゃられるではないか。
私は話の方向を変えてみた。
日本に着いてから、どうなされるのです? 提督とは話がついているのですか?
「いいえ、なにも。提督は何もおっしゃらずに日本に帰られた……」
陛下のお顔が曇った。
ならば、提督のお帰りをお待ちなされませ。
お帰りになってから、それからお話し合いなされませ。
「……いいえ、もう待てない。待てないのよ、マロウェイ」
陛下は気弱に瞳を伏せられた。
「辛いの、待っているだけでは。もしこのまま別れてしまうようなことになれば、私は生きていけないと思う」
陛下のお声がかすかに震えていた。
ああ陛下、おいたわしい陛下。
私は思わず涙ぐまれている陛下のお手をとった。
そんなことをおっしゃいますな、陛下、どうか落ち着いてくださいませ……いま追って行かれなくとも、提督とはやがて連絡がつきましょう。
「ええ、たぶん……。約束を違えるような方ではない。でも、もしかしたら、なにかあれば」
わななくお声。
「もう待てない。もうこれ以上不安に耐えられない。大石さまに会いたい、どうしても!」
陛下は不意にキッと涙に潤んだ瞳を上げられた。
「自分を律することができないようでは女王の資格はないわ。そうでしょう? メアリがいるわ、妹は強くてよ」
メアリ様、メアリ様はこの計画にはなんと?
「……」
ほれ、おこたえなれますまい。
メアリ様とて本心ではご反対じゃ。
どうせ無理にお頼みなされたのでございましょう? 姉君思いのあの方のお気持ちを逆手にとって。
図星だったのか、陛下は苦しそうなご表情のまま返答されない。
私はもう一押しした。
外交問題になりますぞ。大石提督のお立場も苦しくなりますぞ。
「……構いません。私をどうされるか、提督にお任せします。もし英国に送り返されても、私はもう女王の座に戻るつもりはない。そのときは……」
最後までおっしゃらず、陛下は私の手を振り切ってふらふらと窓辺に向かわれた。
外はいつの間にか暮れかかっており、上空には茜色に染まった風雲が幾筋も流れていた。
悲壮な決意を秘めたまなざしで、陛下はそれ以上何もおっしゃらずに夕空をみつめておられた。
……陛下は変わられてしまった。
なりふり構わず、恋人の後を追って日本へ行こうとおっしゃるのか。
国民を捨て、女王の矜持を捨てて。
国中を敵に回しても、ご自分の名誉が地に堕ちても、恋だけを追われるのか。
……陛下をここまで苦しめ追い詰めた大石提督に私はあらためて憎しみを抱いた。

「駆け落ち同然ではないか」
悄然として陛下の御前を下がった私は、妻の顔を見るなり陛下のご意向を伝えて嘆いてみせた。
いかなることでもご助力申し上げると誓いはしたが、あまりに短慮すぎる……。
「おいたわしい。それほどまで思いつめられて」
妻は涙ぐんだ。
「どうしてもうしばらくお待ちになれないのだ!」
私が吐き捨てるように言い捨てると
「私はお供いたします!」
と、妻は毅然と言い放った。
「何を言う――」
「陛下のお心のままに。そう腹をくくったではありませんか、いまさらなんです」
「しかし――」
「陛下が日本へ、提督のもとに行かれると仰せなら、私も従います。どのような結果になりましょうとも……神のご加護が陛下にありますよう」
妻は静かに手を組んで神に祈った。
いったい女のほうがいざという時思い切りがいいのだろうか?

呆気にとられている私をよそに、妻は熱心にあれこれ算段し始めた。
「モニカに成りすまして渡航なさろうとお考えなのですね。……ええ、モニカならあの子は金髪、目も青くて背格好も陛下に似ておりますわ」
「そんな安直な成りすましが通用するものだろうか。亡命手続きはそんな簡単なものではないだろう」
「でも、亡命許可が既に下りているということは、手続きは済んでいるんじゃございません? 陛下のお声掛りということで。でしたらあとは当日のチェックだけでございましょ? 仔細はあなたがしっかりと確かめておかなくては」
うむ……。
たしかに亡命者名簿に名前が記載されており、白鳳の座席が確保されておった。
そこまで手筈が整っておれば、問題は当日の本人確認だけかもしれぬ。
「顔写真と見比べるだけですわよ、きっと」
「すぐに陛下だと気づかれてしまいはしないか」
「化粧を濃いめにすればようございます」
「そんな簡単に言うが……」
「あなたのような殿方は近頃のお化粧をご存じないのよ」
妻は自信たっぷりに言い切った。
そんなものなのか? たしかに私は女の化粧など気にしたこともないが。
「すべては陛下のお心のままに。そうあなたはお誓いになったではございませんか? 陛下の変装は私にお任せになって、あなたはもっと細かなところをお詰めあそばせ」
妻にそう決めつけられて、私は黙り込むしかなかった。

それからというもの、私は忙しく立ち働いた。
まずアバディーンからモニカを呼び寄せた。
当日、われわれが白鳳に搭乗してしまうまで、娘のモニカが陛下の代わりにお部屋に篭って侍従たちの目を誤魔化すのだ。
メアリ様もすべてを承知なされた。
陛下は表立ってはご休養として、さしあたってのご公務はすべてメアリ様が肩代わりなされる、という手筈も取り決められた。
そして、そのまま王位を継がれることも……。
メアリ様は陛下の身をお案じになってひどく気を揉まれていたが、もはや意見らしいことは何もおっしゃられず、すっかり覚悟をお決めあそばされた御様子……お仲の睦まじいご姉妹であられるから、陛下の命がけの恋に何も言わずにお味方されるのであろう。
メアリ様は昔から姉君に献身的な方であられた……。
われわれは香港の甥のところへ身を寄せるので、ひとまず日本へ、ということになっている。
儀典長のお役目は老齢を理由に退かさせて頂いた。
そろそろ隠居するつもりであったから、なんということもない。

こうして我らは無謀にも皆目見通しの立たない日本への逃避行に踏み出した、というわけだ。
お諌め出来なかった我が身を不甲斐なく思いつつも、マーガレット様の恋の成就を心から願わずにおられぬ。
その昔のスコットランドの女王の恋の逃避行を私は何度か思い浮かべた――不吉な連想ではあったが。
どうか大石提督が実のある人物であれかしと、マーガレット様の前途に幸運あれかしと、この老骨はひたすらそれだけを請い願う。
あらゆる内心の声に耳を塞ぎ、私は黙々と計画を推し進めてゆく。
ともかく、日本へ――陛下のお心のままに。