◆氷河


防空指揮所は原のお気に入りの場所だ。
眼下に広がる水平線と鉛色の海。
海に突き出た切り立った崖。
山肌を覆う白い氷河。
外套なしでは長居は出来ないが、凍てつくような澄んだ空気に触れると、気持ちが引き締まるような気がする。
氷点下の寒風が正面から吹き付けてくる。
原は両腕で自分の身体を抱いて、身震いした。
原はこの地の荒涼とした景色が好きだった。
オークニー諸島の緑の小島よりも、無愛想なこのアイスランドの氷河を彼は愛していた。


振り返るようにして後方を眺めると、切り立ったフィヨルドの奥になだらかな褐色の丘が見える。
ポツポツと見える白い点は岩だろうかヒツジだろうか。
ヒツジのような気がする。
そう思ったほうが和やかな気持ちになれる。
「……丘に登るとですね、ヒツジがいっぱいいるんですよ。モコモコしていてとてもかわいいんですよ」
この前の休みの日に丘に登ってきた磯貝が、目を輝かして話しかけてきたことを思い出して、原は頬を弛めた。
「……参謀長も一度いかがですか? 風は冷たいけど、道はゆるやかな登りだし、いい運動になりますよ」
「うん……」
気のない返事をしておいたが、誘われて悪い気はしなかった。
磯貝は気のいいやつだ。
あんなに辛く当たったこともあったのに、懐いてくるなんて鈍感というか……、
「得なやつだな」
原はそう声に出して呟いた。


あれは半月ほど前のことだったか。
雪が積もってイーサフィヨルズが真っ白に雪化粧をしたことがあった。
原は防空指揮所でいつものように氷河を見ていた。
ほんの少しだけ顔を出した太陽が、桃色の光線を水平線ぎりぎりから投げかけてきて、雪の大地をこの世のものとも思われぬ色に染め上げていた。
ばら色の氷河、ばら色の丘、ばら色の地平線。
原は息を呑んで極北の美妙な光景を見つめていた。
風も止まり、時間が止まったように、物音ひとつしない。
そこへいきなり背後の鋼鉄のドアが音を立てて開閉された。
バタン!
原ははっとして背後を振り返った。
大石が目を輝かして空と氷河を眺めていた。
「これはすごい……!」
深い響きの大石の声には感嘆がこめられていた。
手すりから身を乗り出すようにして、大石はイーサフィヨルズの美しい光景に心を奪われている。
その横顔にばら色の光が照り返していた。
「窓から見ているだけでは我慢できなくてな、ここまで登ってきたんだが……君に先を越されたな」
大石は原のほうを向いて、その癖のある片頬だけの笑顔を見せた。
軍帽が斜めに傾き、右の頬に片えくぼが浮かんでいる。
「いつからここにいる?」
「は……」
大石の質問に原が正直に腕の時計に目をやったとたん、
「だめじゃないか、手袋もせず……指先が真っ赤になってるぞ」
白い手袋の手が、原の指先をぎゅっと握った。
原はどきりとして思わず大石の顔を見た。
大石は原の手を見ていた。
「氷みたいじゃないか」
何気ない大石の行動が、原を激しく動揺させる。
心とは裏腹に原は迷惑そうな顔をして、握られた指先を大石の手から引き抜こうとした。
「ああ、すまん、つい」
大石は気軽く手を離した。
「まだ見ているのか? 風邪を引くなよ」
そう言ってぽんと原の肩をたたくと、大石は来たときと同じように重いドアを開けて去っていった。
ばら色の光が一瞬にして色褪せたように原には思えた。
忘れていた手先や顔の冷たさが痛いほど感覚によみがえってきた。
……長官……!
原は泣きそうな表情で唇をかんだ。
いっそ事務的な関係に徹することができたなら。
いっそ長官が俺に好意を持たないでいてくれたら。
ここまで辛い思いをしなくてよかったかもしれないのに。


それほどどうしてもという切羽詰った思いではない。
ただいつの間にか、大石のそばにいるうちに育ててしまった思いなのだ。
どうということもない……そう思っていた。
尊敬できる上司に出会えて嬉しかった。
この人のためならばと思えた。
親しみを込めた暖かい笑みや、遠慮のない愛嬌のある物言いに慣れ、いつしか胸のうちにある期待をうっかり育ててしまっただけなのだ。
原のためだけに淹れてくれるコーヒーがある。
原にだけ出してくれるダービーのカップがある。
原だけが招かれる大石の雑然とした私室。
すべては原だけに与えられた特権だ。
お気に入りの腹心にして、親しい友人。
ふと話が途切れたとき、大石は原の目をじっと見つめて微笑みかける。
何の気なしに原の髪や肩に触れたがる大石の癖。
すべて大石に他意はない、ただの好意の表現だ。
なのに、原にはすべてが苦しい。


どうして気づいてくれない?
いつも俺をそばに置きたがり、何かと当てにするくせに。
ふたりきりの部屋で、恋人にするように笑いかけ、見つめ、触れておいて。
そんなことをされて俺が何も感じないと思っているのだろうか?
俺の心が石でできていると思っているのだろうか?
……お願いですから触れないで下さい。長官には何でもなくても、私はそうではありません!
なぜ、わかってくれないんですか?
触れてくるあなたの手を避けるのは、これ以上胸の動悸に耐えられないからです。
こんな精一杯の虚勢に、あなたのような聡い人がなぜやすやすと騙されるんです?


柔らかな原のくせ毛を凍えた潮風がサラサラと揺らしている。
……いつか、いつか吹っ切れたい……!
冷たい研ぎ澄まされた風に吹かれながら、このもやもやした思いから解放されたいと原は願った。
……俺は氷河が好きだ。あの何よりも白い輝きが好きだ。
氷河を抱いた遠い山並みに原は目を戻す。
移ろう光に色を変えながらも、自身の白い輝きをけっして失わない氷河に、原は憧れすら抱く。
……自分自身を取り戻したい。
出口のない、じめじめとした鬱屈した感情が心の内襞を蝕んでいる。
大石に惹かれ、尊敬と友情よりもっと濃い感情を抱いてしまった自分が情けなかった。
そんなふうに仕向けてきた大石までもが恨めしかった。
たとえ大石にそんなつもりが毛頭なかったにしても。
いつもこの時間に、原が防空指揮所に氷河を眺めに来ていることを、大石は知っているだろうか?
もし、気づいてくれることがあったなら。
……まさか。あの長官が気づくはずがない。
原は苦く笑った。
……そうじゃない。俺はここの眺めが好きなんだ。自分の心を取り戻したくてここに来てるんだ。
原は昂然と頭を上げ、清新な冷えた大気を胸いっぱいに吸い込んだ。
なにかしら、この澄んだ極北の光と空気に愛着に近いものを原は感じていた。
……そうだな、軍を離れて自由になったら、この氷の国に留まってみようか。
そんな漠然とした望みを持ちながら、醒めきった目で原はイーサフィヨルズの寂寥とした風景に眺め入った。
……いつかこの思いを吹っ切れたらな……。
氷河は真白く輝いている。
何万年もの孤独に耐えながら、あくまでも白く、冴え冴えとした輝きを放っている。