◆イノセント


長官室にはコーヒーの香りが漂い、大石と原がコーヒーカップを手に向かい合っていた。
「その後、磯貝の様子はどうだ?」
大石はカップを置くと柔らかく尋ねた。
「はぁ、磯貝ですか」
原はコーヒーが急に苦くなったような気がした。
思わずため息がこぼれる。
原の毎日のストレスを大石に訴えても仕様がないし、愚痴を言うつもりもない。
原は強いて明るく笑って見せた。
「磯貝は参謀に不向きなんじゃないですか? どちらかというと現場の指揮のほうが向いているんじゃありませんかね?」
「ほお、どうしてそう思う?」
大石は興味深そうな顔をした。
「あいつは普段はあんなおっちょこちょいですが、戦闘になれば不思議と落ち着いてますからね。そこのところは保証しますよ」
「磯貝はいくら戦時特例といっても大佐に昇進してしまっている。艦長修行に出すにはちょっとなぁ」
「若い連中にも慕われているし、いい艦長になりそうなんですがね」
先日見た尊氏の甲板での様子を原は思い出した。

     *      *      *

所用を終えて尊氏艦長と雑談をしているうちに磯貝の姿が見えなくなった。
(どこほっつき歩いてんだ)
原はかすかに顔をしかめると甲板を見回した。
尊氏の長い飛行甲板には少し前に着艦した神光が三機並んでいた。
きびきびと働く整備兵に混じって磯貝が機体の横に立っていた。
(あいつは!)
原は舌打ちすると早足で磯貝に近づいていった。
磯貝は幸せそうな顔をして整備兵らに何か話しかけている。
パイロットも話の輪に加わりなにやら楽しげな雰囲気だ。
原は出来るだけ穏やかな声を出して磯貝を呼んだ。
「磯貝、何をしている」
整備兵らは原を見ていっせいに敬礼した。
「あ、参謀長。御用はお済みですか」
磯貝はいたって暢気に答えた。
手にはウエスを持っている。
原の視線を感じて磯貝は手にしたウエスを見やった。
「これですか? こいつを撫でてやりたかったんですよ」
磯貝はウエスで機体を磨きだした。
「命がけで働いてくれているこいつに、頑張れよと言ってやりたくなって」
そう言って照れたような眩しげな笑顔で磯貝は機体を撫でる。
愛しそうに整備兵と一緒に機体を磨いている磯貝はとてもいい顔をしていた。
機を我が子のように慈しんでいる職人気質の整備兵たちには磯貝の真心がわかるのだろう。
階級を飛び越えた隔意のない笑顔を磯貝に向けていた。
原はその光景にと胸を衝かれた。
頭ではわかっていても、あえて実物を記号に変換してしまうような参謀の思考とは別の感性が磯貝にはみずみずしく残っている。
それが参謀として良いことなのかどうかといえば、原は否定的にならざるを得なかった。
参謀職では磯貝の魂の輝きを活かせないことを原は彼のために悲しんだ。

     *      *      *

「艦長にするのはどうしても降格人事めいてしまうな。といっていきなり軍艦はなぁ」
大石は真剣に考え込んでいる。
「たしかに彼は出世街道を驀進中ですが、本人はどう思っているんでしょうね?」
大石はさあて? というふうに首をひねった。
「私の見るところ、飛行機が好きでたまらないといった感じですがね。子供みたいなんですよ、磯貝は」
原は機体を愛しそうに撫でていた磯貝を思い出して優しく微笑んだ。
「ん?」
大石は原の微笑を一瞬意外そうに見たが、すぐに表情を柔和な笑顔で韜晦した。
「なにか面白いことでもあったのか?」
「面白いというか、磯貝はね、人が目を離した隙に神光を整備兵と一緒に磨いてるんですよ。幸せそうな顔をして」
「ふふふ。磯貝らしいな」
大石も微笑んだ。
「いっそ航空基地の司令にでもするか」
「そりゃいいかもしれません」
原は大石に微笑み返した。
彼の磯貝への感情は日頃のストレスとは別に心の奥で錯綜していた。
原はカップの中のコーヒーに目を落とし、尊氏へ行った日のことを思い出していた。
機体を磨いていた磯貝を連れ戻してからの出来事である……。

     *      *      *

「袖口!」
原は磯貝の制服の袖口にべったりと機械油がついているのを見て目ざとく注意した。
「あ」
磯貝は袖口を見て間の抜けた声を出した。
「制服のままで現場をちょろちょろしたりするからだ」
細かなことまで口に出して叱ってしまう自分に原は愛想が尽きる思いだった。
つい今しがた目にした磯貝の純真な魂への羨望が、彼をいつも以上にいらだたせている自覚がある。
原が憧れてやまない純真無垢な魂が、磯貝のような鈍な男の中に存在することへのやっかみ……
(俺は理由をつけて磯貝をいじめたいだけなのかも知れない)
原の自己嫌悪をよそに、磯貝はもぞもぞとハンカチで機械油のしみをふき取ろうと苦戦している。
そのうち磯貝は手指にも黒い油をつけてしまい、それがまた顔についたりする。
まったくどうしようもない不器用な男だ。
辛らつな嫌味が喉元まで出かかったが原はぐっとそれを飲み込んだ。
「貸せよ」
原は磯貝から白いハンカチを取り上げて、磯貝の顔をごしごしと拭いてやった。
磯貝は母犬に顔を舐めてもらっている子犬のように目をぎゅっと閉じている。
(なんで俺は嫌いなこいつとこうしてじゃれあっているんだ?)
自虐的な色が原の切れ長の眼に浮かんだ。
(嫌い? いや嫌いなんじゃない。俺はこいつに惹かれているんだ。こいつの純粋さに……)
原の手がはたと止まった。
気づきたくなかった自分の心の秘密を突然探り当てて原は衝撃を受けていた。
磯貝が恐る恐る目を開いた。
磯貝の目の前に凍りついたように無表情な参謀長の顔があった。
氷のような目をした原の美貌が……。
「馬鹿、まだだ」
原の不機嫌な声に慌てて磯貝はまた目を瞑った。
うっすらと首元から磯貝の顔が赤くなっていく。
なぜかはわからないが原の表情は磯貝をひどく動揺させた。
磯貝は自分の鼓動が原に聞こえてしまいそうな気がした。
「もういいぞ」
原の声にこわごわ磯貝は目を開いた。
「ほら」
原がハンカチを磯貝に投げてよこす。
磯貝は慌ててハンカチを胸に受け止めた。
「手は自分で拭け。それから艦に帰りつくまで顔に手をやるんじゃない、いいな?」
「はっ」
「わかったらさっさと来い!」
原はいつもの素っ気無い声で言い置くとさっさと先に歩いていく。
「ははっ」
ハンカチを手の中でもみくちゃに丸めながら磯貝が後を追った……。