◆従兵長の思い出
第二次世界大戦が終わりまして、早いもので五十年が過ぎました。
照和の時代も今や一昔前となり、毎年開く同期会も参加者が年々減り、寂しいものになってまいりました。
私の三十年間の海軍生活で、一番懐かしく思うのは日本武尊のことでございます。
私にとって日本武尊で過ごした五年間は、何物にも代えがたい貴重な経験でございました。
大西洋まではるばる遠征し、華々しい活躍を海軍史に残した旭日艦隊の旗艦、あの名高い日本武尊で私は従兵長を勤めさせていただきました。
大石元帥のおそばにお仕えして、数々の会議や海戦の模様を、そして大石元帥のご日常をこの目で見てまいったのです。
……大石元帥をはじめ、日本武尊でお世話申し上げた幕僚方も、いまやすべて鬼籍に入ってしまわれました。
私の記憶がはっきりしている間に、日本武尊で見たことをいくつか話し残しておこうと存じまして。
何分この歳でございます、とりとめのない話になろうかと存じますが……。
大石長官の印象
私は日本武尊に配置されるまでは「長門」勤務の上等兵曹でした。
二十歳で横須賀の海兵団に入団いたしまして、私が日本武尊に乗組みましたのは二十九歳のときでございます。
日本武尊に参りまして半年ほど経ったとき
「従兵長をやってみないか」
と分隊長からお声を掛けていただいたのです。
当時私はすでに古参の下士官でして、今更気のはる司令部へ移るのは気が進まなかったのですが、分隊長のお声掛りとなれば否応もありません。
「お引き受けいたします」
とお答えして、私は司令部従兵長になったのでございます。
私はまず副官の方のもとへ着任の挨拶に参りました。
そこで司令部勤務の心得を懇切に申し渡されました。
それから副官に連れられて、各公室を回って新任挨拶をして回ったのでございました。
まず最初にご挨拶に伺いましたのは、長官室でした。
長官室は大きなお部屋で、灰色のじゅうたんが敷き詰められた、それは立派なお部屋でございました。
壁は板張りで、天井にはシャンデリアがありました。
中央にどっしりとした応接セットがありまして、壁際にも予備のソファーが置いてございました。
はい、それはもう長官室にふさわしい立派な調度でございました。
大石長官はお身丈の大きいがっしりしたお方で、私がご挨拶に伺ったときは執務机で書き物をなさっておいででした。
長官はこう、目鼻立ちのはっきりした、映画スター顔負けの苦みばしった男前で、初めてお目にかかった私は思わず見蕩れてしまったぐらいで。
ええ、残っているお写真よりもずっと美男子でございましたよ。
なんかこう、お姿に迫力というか気迫というか……そのくせ笑顔になられると、とても暖かな気さくな感じになられまして。
私がご挨拶申し上げると
「そうか、よろしく頼むぞ」
そうおっしゃって、私の目を見てにっこりと微笑まれました。
そのあと出身地や経歴などを尋ねられましたので、私は膝が震えるほど緊張しながらお答えしたのを覚えております。
長官はなんとも威厳のある、それでいて親しみやすい雰囲気をお持ちで、私は初対面からすっかりこの方に心服いたしました次第です。
長官の字
司令部付要員というのは、司令部専属要員のことでございます。
長官、参謀長、幕僚の皆様に、それぞれ専属の従兵が付いて、身の回りの一切をお世話申し上げます。
日本武尊からも数名、従兵として出向してきておりましたので、司令部従兵は総勢で18名でした。
幕僚方のお世話のほかに、来客の際の茶菓のご接待・ご宿泊の段取りなどを要務といたしました。
司令部従兵長とは司令部の裏方を取りまとめる役目でして、いわば司令部ホテルの支配人、といった役どころでしょうか。
長官専属の従兵は2名おりましたが、私は公式の行事では必ず長官のおそばで御用を務めました。
副官のご指示を受けて、誠心誠意お勤めしたものです。
長官宛に届いた手紙類も私がお手元にお持ちすることになっておりました。
「旭日艦隊司令長官様」という宛名のお手紙は公文書とみなされ、すべて副官が開封されていました。
そして返書も副官名義でお出しになっていました。
「大石蔵良様」という宛名のものだけを、私が長官のお手元に運んでおりました。
長官はご家族をお持ちでなかったので、他の方ほど手紙を心待ちになされていた様子はございませんでしたね。
それでも日本からたくさんの手紙が長官宛に届いておりました。
長官は滅多に筆を使われず、万年筆で返書をしたためておいででした。
長官の筆跡は、かっちりとした読みやすい字体で、ちょっとした走り書きやメモでもそうでした。
「俺は悪筆だから、自己流で崩したりすると、後で読めなくなって往生しかねん」
そんなことを笑っておっしゃってましたが、お仕えする側にとっては、大変ありがたいことでした。
長官の骨董趣味
長官はいつも朗らかな方でした。
私たちにも笑顔を惜しむことない、気さくな方でした。
煙草は滅多に吸われなかったので、お部屋の掃除も簡単でした。
ただ、長官室をはじめ、いろんな場所でコーヒーを立てられましたので、その用具の後始末が大変だったぐらいでしょうか。
ネルやサイフォン、いろいろな種類の道具をお持ちでして。
長官は扱いに慣れない従兵にいちいち洗い方仕舞い方を指導されてました。
普段は何事も鷹揚な方でしたが、こういうときはちょっと口うるさい面もおありでしたね。
コーヒー豆は大事にされていて、ご自分の私室に保管されていました。
特に女王陛下の御下賜品のコーヒー缶は棚に飾って大事になされてました。
掃除に来た従兵にも
「あれは触らんでいい」
と厳命されてまして。
コーヒーカップも食器室のものだけでなく、ご自分の私物のカップをお使いでした。
長官がご自分で集められた高価なカップもあったので、取り扱いには神経を使いました。
なんでも御用でインバネスやエジンバラに赴かれたとき、暇を見ては古物商の店をひやかしていられたとか。
さすがイギリスは古くていいものがある……そんなことをおっしゃって、夕食後机の上に買物を並べられては、にこにこなさっていたお顔を思い出します。
ごらん、これはどこそこのものだよ、青い色が綺麗だろう……などと、焼き物の窯の名を教えてくださったこともあったのですが、すっかり忘れてしまいました。
長官室や私室でお使いになるカップと、艦橋や作戦室でお使いになるカップは分けておりました。
一度、作戦室でうっかりカップを落として割ってしまった参謀がおいでになったからです。
……はい、その方です、よくおわかりで。
揃いものの大切なカップだったそうで、長官は少なからずがっかりなさってました。
それ以来、艦橋や作戦室では、食器室のカップで間に合わせておくようにとお命じになりました。
コーヒー用の水にも凝ってらして、イーサにいた頃は氷河の氷を持ち帰って使っておいででした。
こっそり飲んでみたことがあるんですが、別段なんということのない、ただの水でしたね。
まだまだございますが、今日はこのぐらいで……ありがとうございました。
――元旭日艦隊司令部従兵長Y氏談