◆従兵長の思い出2


桜の時期になりました。
今朝も近所の土手をくるりと散歩してまいりましたが、五分咲きというところでしたでしょうか。
今年も桜を見ることができまして、ありがたいことだと思っております。
桜といえば『同期の桜』という軍歌がございますが、私は当時からあまり歌いませんでした。
同期会などでたまさかに歌うことはございますが……そうです、貴様と俺とは同期の桜、という歌でございます。
士官方は、同じ兵学校の庭に咲く、と歌われますが、私どもは、同じ海兵団の庭に咲く、と歌い替えるわけでして。
ぱっと咲いてぱっと散る……歌に歌われる桜とは違い、こうして年老いて平和な世を楽しめる私はまことに幸せ者でございます。
では、本日も遠い昔のことなどを思い出してお話してまいりましょう。

  整理魔の参謀長

大石長官はコーヒー道具以外のことには、まったく鷹揚でモノにこだわることのない方でした。
とくにお部屋を散らかすこともされないし、うるさいこともおっしゃらない。
いつも陽気で私どもにも気さくに接してくださる。
お仕えする側にとっては願ってもない方でありました。
反対にお仕えしにくい方と申しますと、夜遅くまでお酒を飲まれる方でしょうか。
いつもいつもというわけではございませんが、たまに日付が変わってもお酒をまだ過ごされる方もございました。
お一人で飲んでくださる分には構わないのですが、お燗の番や氷をもってこい、つまみはないのかと従兵を消灯時刻を過ぎても使う方が、困ります。
翌朝のお勤めに障りますので。

原参謀長も手が掛からなかった部類の方でございます。
煙草もめったに飲まれませんでしたし、きちんとした方でしたから、お言いつけに従っていれば良いような具合でして。
ただし、お机の上や書棚の掃除には気を遣いました。
もともとわれわれ海軍の者は、整理整頓がきっちりできるように新兵のころから仕込まれているのですが……はい、それを上回って参謀長は整理魔でおいででした。
なんでも端から揃えてきっちりと置かないとお気に召さない。
紙もお机と平行に真っ直ぐ揃えておかなければならない。
少しでも歪んでいると、ペン皿でも吸い取り紙でも、ご自分で一つ一つきちりきちりとお直しになる。
口に出しては何もおっしゃらないのですが、無言でそんな事をされると従兵はもうビビッてしまいまして……。
とにかく角のあるものは、メモ用紙の類でも石鹸箱でもなんでも、水平直角に気をつけてカッチリと置かないといけませんでした。

他の方のお部屋は内舷掛け(ぞうきんで拭く作業)は二日に一度、床磨きは三日に一度でもよかったのですが、参謀長のお部屋だけは特別でした。
お部屋の床はリノリュームでして、よくよく水拭きした後、専用の油を垂らしましてピカピカに磨きこみます。
参謀長専属の従兵は、これを毎日念入りにいたしまして、参謀長室の床はもう鏡のようにピカピカでありました。
床だけでなく、この従兵はドアの取っ手から風呂場の蛇口、厠の配管まで磨き粉で顔が映るほど磨きたてました。
まあ私もとくに几帳面な性質の兵を選びまして、参謀長専属にしたのでございますが……。
参謀長は潔癖といえるほどきれい好きな方でしたが、そのへんを飲み込んでお部屋の隅々まで念入りに整えておきますと、ちゃんとお気づきになって、その労をねぎらってくださるお仕えしがいのある方だ……そう参謀長専属の従兵はかえって喜んでいたものでした。
こんなこともございました。
掃除が終わりました直後の、朝の執務時間のことです。
参謀長室に航空参謀がお越しになりました。
なにかご報告があってお見えになったのですが、参謀長は黙って航空参謀のお足元をじっとみつめておいでになります。
航空参謀は格納庫にでもお寄りになったのでしょうか、油の黒い汚れがついた靴跡がはっきりとピカピカの床の上に残ってました。
「足元を見てみろ。せっかく綺麗にしてくれてる床をおまえは! きちんと靴をぬぐってから出直して来い!」
そう参謀長は航空参謀を厳しくお叱りになりましたので、航空参謀は報告もそこそこに恐縮しもって退出なさいました。
「ああいう、他人の労力を無駄にするような無神経は許せんよな」
私はたまたま食器室に控えておりましたので、従兵とふたりでソーフ(麻ロープをほぐした海軍雑巾)で汚れた床をさっと拭き清めていたのですが、参謀長は私たちふたりに向かって、そんなお言葉をかけてくださったのでございます。
なんとも掃除する側の気持を汲んでくださる、優しい方ではありませんか。
感激した専属従兵がますます念入りに掃除するようになったのは、申すまでもありません。
参謀長はまことに厳しく整然とした方であり、参謀方の前でもあまり笑顔をお見せにならなかったように記憶しております。
私も御用で参謀長室に参りますときは、姿勢を正してそれはもう緊張して入室したものでございます。
しかしながら、ときおりお見せになる素顔には、じつに人間味に溢れた優しいところがおありでした。

  艦長の長風呂

キリッキチッとしたものがお好みの参謀長でしたが、ワイシャツのカラーはあまり糊のきいた物はお好みになりませんでした。
参謀長のワイシャツや寝間着・シーツの仕上げは、柔らかめにするよう洗濯室に申し付けてありました。
なんでも、肌がかぶれやすいご体質だったからと伺っております。
ご入浴の際も、長官が熱い湯を好まれたのとは対照的に、参謀長はぬるい湯を好まれました。
ついでですので、幕僚方の風呂についてご説明しておきましょうか。
私室に風呂があったのは長官と参謀長と艦長だけです。
西洋式のバスとトイレでしたが、バスとトイレはべつべつに設置されていました。
私室の奥にドアがありまして、ドアを開けますとまた右手にトイレのドア、左手にバスのドアがございます。
浴室は舷窓が二つあり、早い時間に入浴されますと外の景色をご覧になりながら、のんびりと湯にお浸かりになれたはずです。
バスは長い大型のもので、ゆっくりと足が伸ばせました。
タイルは上品なクリーム色でシャワーも設置されておりました。
はい、ホテルにも劣らない贅沢な設備でございましたよ。
風呂にお入りになりたいときは、ベルを押して従兵を呼ばれます。
そうすると従兵が湯を張って石鹸やタオル類の点検をして、入浴のご用意を整えました。
先ほどお話しましたように、長官は熱めの湯を、参謀長はぬるめの湯を好まれました。
艦長はその中間でしょうか、湯温にはあまり拘られなかったそうで。
艦長のお世話は、当然司令部の私どもではなく、日本武尊の役員の受け持ちなんですが、聞いたところによると艦長はたいそうな長風呂だったそうです。
風呂を出られた頃を見計らってバスを磨きにいくのですが、艦長の風呂は他の方の倍以上の時間を見ておかないといけなかったそうです。

私室に風呂のない他の幕僚方には、共同風呂が用意されていました。
五六人が一緒に入れる大きさの和式の風呂でした。
風呂が沸いて準備ができますと、艦隊機関長・艦隊軍医長・艦隊主計長の俗に申します「三長官」から順番に
「風呂準備よろしい!」
とお知らせしてまいります。
あとは先任参謀から順に席次に従ってお知らせしてまいります。
「そうか」
とおっしゃってすぐ入浴される方もいらっしゃれば
「後でいい」
と忙しそうな方もおいででした。
消灯前の湯を落とす直前になると、従兵たちはこっそり残り湯を頂いたものです。
本当はいけないのですが、従兵の役得として大目に見てもらっていました。
士官方とは違って、下士官兵は毎日風呂に入れなかったものですから、みな大変楽しみにしておりました――


――元旭日艦隊司令部従兵長Y氏談