◆罫紙〜続き
控えめなノックに続いて、
「長官、朝食の用意が整いました」
という従兵の声とドアのノブをひねる音がした。
「おっと、入るな!」
慌てて大石が制止の大声を上げた。
人事資料である考課表を従兵の目に触れさせるわけにはいかない。
「はっ、あの、朝食の用意が」
「わかっとる! みんな先に食っていてくれ。俺と参謀長はもう少ししたら行く」
従兵にそう怒鳴り返しておいて、大石はくすりと原に笑いかける。
「一応鍵を掛けておくか」
「そうですね」
原は立ち上がり、長官室のドアをロックして、また大石のそばに戻る。
「まいりましたね、書類が書類だけに、人を呼んで手伝わせるわけにもいかないし」
「いいさ、食事は後回しにして一枚一枚揃えるさ……そっちに機関長のは、ないか? 最後のページだけ見つからん」
「そこにかためて置いておいてください。個別に探すより順番に並べたほうが早く片付きます」
「そうか」
大石は逆らわない。
こういうことは原のほうが手際がいいに決まっている。
じゅうたんの上にふたりは向かい合わせに座り、書類を分別し枚数を点検していった。
朝の光がふたりをすっぽり暖かく包んでいる。
仲良しの幼児が遊びに熱中しているかのように、ふたりはこの単純な作業に没頭していた。
「ふふ、でもさっきの紙吹雪は見事だった」
白紙の罫紙を手にしたまま、大石が原に微笑みかけた。
大型の紙吹雪、ひらひらした罫紙の渦。
長官室が一瞬真っ白い紙の乱舞に埋もれた――
「ええ……」
ちらり、と原も目を上げてうなずき返す。
まったく見事な光景だった……『人秘』の朱印の入った人事書類を部屋中にばら撒くとは。
「……ちゃんと全部あるんでしょうか?」
「一枚ぐらい、どこかに飛んでいってたりしてな」
「始末書ものですね」
「俺と君が始末書を書くのか。前代未聞の始末書だな」
のんびりといっこうに急ぐ気もなさそうな大石の手の動きに合わせるように、原も慌てることなく一枚一枚丁寧に書類を揃えていた。
大石とふたりで過ごすこの時間が心地よかった。
親しみを込めて笑いかけてくれる大石の笑顔が、快く原の心に沁み透っていく。
疲れていた原の神経は大石の闊達な笑顔に、徐々に、確実に癒されていくのだった。
「……へぇ? 鍵を中から掛けられた?」
きょとんと磯貝が空席のままの正面の椅子二つを見た。
「朝っぱらから変だなあ? ふたりで部屋に鍵を掛けて、いったい何してらっしゃるんだろう?」
朝食のテーブルについていた幕僚たちがいっせいに磯貝の顔を見た。
「え? あ……」
自分の発言の意味にやっと気がついて、磯貝の顔はゆっくりと朱に染まっていった。
「……いや、もちろん仕事で、秘密ぅ……その、極秘の」
あたふたとフォローにならないことを口走る磯貝に、幕僚たちは笑いもせず、ただ行儀よく静かに俯いた。
司令部の幕僚だけで摂る朝食の席には、夕食時の士官食堂でのように、陽気にまぜっかえす科長連もおらず、そっと助け舟を出してくれる艦長もいない。
磯貝はもぞもぞと居心地悪そうに身動きすると黙り込んでしまった。
朝食の味噌汁がテーブルの上で虚しく美味そうな湯気を立てていた。
先任の磯貝が箸を取らないものだから、誰も食事に手をつけない。
料理はどんどん冷めていく。
状況を見かねた従兵長が、そっと磯貝の耳もとに囁きかけた。
「あの、先に食べてろ、と長官はお申しつけになったそうなので……皆様方はお食事を始められてもよろしいかと」
「あ、そうだな」
ぼんやりとしていた磯貝がそういわれてはじめて箸を手に取った。
「では先に頂くことにしよう。……いただきます!」
ちょっぴり鈍い先任参謀に従って幕僚たちも箸を取り、ようやく司令部の朝食が始まった。
給仕の従兵たちがほっとして茶の仕度にとりかかったころ、長官室では――
「なあ、原君。今朝は何か用があってきたんだろう?」
笑みを含んだ目で大石が原の顔をのぞき込んだ。
「いえ、いいんです。気が変わりました」
原は素知らぬ顔で分別作業の手を休めない。
「なんだ? 俺になんか言いたいことがあったんだろう?」
「ですからもういいんです」
「そうか……なら聞かないが遠慮はするなよ、いいな?」
そっと耳もとに囁きかけるような、大石の響きの深い声が原を優しく包みこんだ。
原ははじめて目を上げて、彼の上司を仰ぎ見た。
驚くほど間近で、大石の頼もしい笑顔が原を暖かく見守っていた。
……長官はすべてご存知なんだろうか? 俺の悩みも何もかも……。
わからないが、この人のためならどんな苦労もいとわない――そんな気概が新たに原の胸に湧いてくる。
「ええ、いたしません」
原はきっぱりとそう応えると、澄んだ涼しげな目で大石をしっかりとみつめ返した。
春の日差しが長官室のじゅうたんにも、朝食のテーブルにも、眩しい光を投げかけていた。
今日もスカパフローは良い天気になるらしい。
*罫紙
現在もお役所では横罫紙(よこけいし)、縦罫紙(たてけいし)などと所定の用紙を呼び習わしております。
旧海軍の考課表用紙は各項目が印刷してありまして、そこに調製官(考課表を作成する上官)が赤インクで印をつけたり、所見を書き込んでいました。
紙質はB模造紙八十斤というもので、ペラペラでありました。